Monday, August 22, 2016

意見は言わない

いま地球上には日本が承認しているだけでも196の国がある。つまりはその数だけ、いや、それ以上に多くの文化があるということだ。近年英語や中国語、正式には北京語などの世界共通言語を学ぶ傾向が強く、母国以外の異国の文化に興味を持つ人は少なくない。しかし、自身が異国文化の少しだけ生々しい事実を見たとたん批判を始めてしまう。もちろん全人類などと言うつもりはないが、自身が慣れ親しんだ文化や意見を押し付ける人を私は多く見てきた。理解と賛否、そして主張は完全に別物のはずなのに、いつの間にか理解しているだけのつもりが主張を繰り返している。


自分は周囲の友人や知り合いに比べても色々と貴重な体験・経験をしているように思う。幼いころから2つの文化が傍にあり、どちらかを選び取ることなく両方とも自分の一部にしてきた。日本と中国、どう考えても全く違う文化を持つこの2つの国が私の母国だ。自分が知る限り日本人は穏やかで親切、核家族が多く実家とそれほど関わりを持たない。そして自分の意見を強く押し付けない、悪い言い方をすれば少しばかり冷たい。範囲が広すぎるので上海周辺に在住している中国人に限定するが、彼らからは人としての熱気を感じざるを得ないのだ。日本人よりも遥かに人と人の繋がりが強固で、顔を突き合わせて会話するのを好み家族や友人と深くつながる分、お互いを支えあい助け合って生きているという大きいメリットがあるが、当然もめ事に巻き込まれやすいデメッリトもある。あくまで私自身の意見だが、この2つの国では自分以外の他人に対する考え方が根本的に違うと思う。


「自分がアメを母に一袋プレゼントしたところ、母は親戚の小さい子供や友人に大半をあげてしまった。」これはよくあることで気分を害す部分なんて全くないが、少しだけスケールを大きくすると話は変わってくる。「アメ」を「お金」にするとわかる。懸命に働いて仕送りをしているのになぜ自分のために使わないのか、と怒りを感じる人の話を聞くことは多く、自身の働いている国の文化と仕送りをする相手の住む国の間に文化の違いがあるなら尚更だろう。


そんな人たち話するたびに「理解」と「主張」が別物だと思い知らされる。笑顔を見るために「アメ」をプレゼントし大半をあげてしまう性質を「理解」していたはずが、いつの間にか本来の目的を忘れ喧嘩をしてまで自身が考える正しい「アメ」の用途を押し付け、「主張」してしまう。理解した時に賛同、または反対する感情が生まれる事は自然なプロセスだが、視点を変えさえすれば少なくとも怒りは生まれてこないのではないか、と思う。用途に賛同できなくとも笑顔が見られたら目的は果たされたも同然で、冷たい言い方に感じるかもしれないが、その後については関わらないほうが良いこともある。


これは私が見たただの一例であり、この世界には無数の考え方がある。だが、自分に合う新しい考え方を発見するまで私はもうしばらく、「理解」しながら生きていく事になるだろう。


Writer :Junki  Yoh