ノンフィクションとしてのフィクション
なぜディズニーキャラクターは孤児の主人公が多いか。なぜドラゴンや魔女や悪魔と戦うことになるのか。なぜヨーロッパの物語は結末でヒーローとヒロインが結婚するのか。これらの物語に登場する「型」は、偶然のものだろうか。物語が担っている役割とは何か。なぜ我々は相当のエネルギーを投入して物語を語り、物語を吟味し、物語を作ろうとしていくのだろうか。
十九世紀以降、科学の発展がある閾値を迎えて、人々の間に広くわたっていた「神話」の「偽り」が隠しきれなくなった。それがいかに「偽り」であるのか、それをここで考察してみようと思う。
おとぎ話は「嘘」ではない
おとぎ話と現実とは同じではないと言う考えに対して、反対をする人はあまりいまい。いや、それをいくばくかの程度において現実的であることを認める人は多いだろうが、それが徹底的に現実的であることを主張する人はあまりいないだろう。ここでその大胆な肯定を試みよう。つまり、物語とは現実そのものであるのだ、という考えの主張である。
現実的でないからこそ、物語は楽しめるのだ、物語は一つの現実逃避だ、という風に言う人間は少なくない。そこに一つ反論をしてみると、例えばK銀河系のK星の、とあるくぼ地にいる黄緑色の粘液状の生命体が星空に反応して「触手」を三十度ほど動かした、というフィクションは興味をそそる物語にはならない。いや、「銀河」や「星」や「くぼ地」や「黄緑色」などの「現実」を使っている点で、このフィクションは十分に現実から離れきれていないとすら言えるかもしれない。
すなわち、物語が物語として生命力を持つためには「現実的」でなくてはならない。だから「現実逃避」というのはずいぶん不思議な言葉である。それは自分の個人的な「物語」から離れて、他者の、より普遍的な「物語」を求める行為に過ぎないのだ。
確かにある日美少女なり美青年なりが現れて、「本当に」恋に落ちたりすることなどあまり現実的ではない。その「現実的ではない」とは、物理的な世界の次元ではあまり現実的ではないということである。しかしここで、別の次元の「現実感」を考えてみたらどうか。我々が我々の選択とは別に、心の中に美少女なり美青年なりを思い浮かべるのいうのは精神的な次元で「現実」であると言えないか。この発想の転換によって、物語も非常に違う表情を持って立ち現れてくるのである。
物語に対するユング派心理学者たちの解釈
ユング派の心理学者らは人々の間で繰り返し語られ、おそらくは人々の心のひだによりしっくりいくように作り変えられてきた伝承の物語を、人間の人格へとアプローチする手段だと認識した。我々が集団として物理的な現実の世界から離れてまでも作り出した心の「現実感」たる物語の中に、我々の精神の構造を読み取ろうとしたのである。
西欧の物語は例えば西欧における自我の確立の過程であると読み解かれた。まず主人公は男性であることが多い。それは西欧の自我が東洋に比べて男性的であるからだと考えられる。「男性的」というのは、例えば物事を明確に区別したり、言語的に主張をしたり、断然とした「父」のイメージを伴っているということである。ここで「父」のイメージと言ったが、このイメージは決して個人差がある個々の父のことを言っているわけではない。これは父らしさとでも言える普遍的なイメージである。ユングは患者の精神分析の過程で、どの患者にも共通する普遍的な無意識の層の存在を見つけ、それを「元型」と名づけた。河合隼雄氏のすばらしい定義に倣えば、父らしさとはすなわち「切る」作用であり、母らしさとは「包む」作用である。西欧の文化は男らしさを自我の基盤としてもっているのである。だからアニメーション作品の主人公が常に男っぽいことは必然であるとも言える。たとえ女の子が主人公に据えられても、その自我獲得の過程はやはり「型」から逃れられない。やはり物理的な「対決」が求められるのだ。
ドラゴンや魔女に象徴されるのはしばしば両親に通じるものが多い。例えばヘンゼルとグレーテルの物語でヘンゼルとグレーテルを追い出すのは意地悪な母親である。父親は強烈な「母性」に圧倒されて力を失っている。そしてお菓子の家で子どもたちは魔女に出会い、その魔女は子どもたちを「食べよう」とするのである。母親の強烈な包容力は、時に程度を越して呑み込む力にまでなってしまう。それは子どもが自らのそばから離れていく個性化の過程を強力に押さえつけて自らの保護の下に還そうとする。その力は、かまどという「子宮」に押し返そうとするまでの破壊性を伴うことがあるのだ。ヘンゼルとグレーテルが父親の元に戻ってくると意地悪な母親はいなくなっている。この筋が母親と魔女の類似性を示唆しているのは明らかだろう。
象徴的な「親殺し」を成し遂げた勇者はしかし、現実との接点を失ってしまっている。そこで結末に、勇者の男性性を補償するものとして、そして失われた現実との接点を回復させるものとして、ヒロインとの結婚が存在することが多い。だからそういう意味では、物語の中で決して「女性差別」が行われているわけではなく、むしろ女性は男性の偏りを補償するものとしてしっかりとした地位が与えられているのである。
物語ることは自我の根本的な一部に形を与えること
物語を通じてわたしたちの心の中からこの世界に生まれてくるものは、わたしたちの心の中に起こっているさまざまな抽象的な出来事を我々の見ている世界の姿に当てはめなおして生まれてくる。心の中で起こったことは、我々に対する外の世界からの入力が、具体的な形から抽象的な形に解かされて漂う。
物語を語ることは、自分の「心」の中で一体いかなる反応が起こっているのか、それに近づくための貴重な手がかりであり、そういう意味で非常に現実性を持っているものなのだ。ある特定の物語がどうしても好きになれない。その理由を究極に突き詰めてみると、自分の全く新しい側面にたどり着くことがある。あるいはむしろ、自分を捕らえている物語に対してはっと意識が届くかもしれない。
「現実」とはいえ、所詮我々は本当の意味で客観的な世界像などもつことはできない。人間は彼が生きた人生の中で、恣意的に情報を選んで思想を練り上げ、それに「現実」と名をつけるのである。いい大学を出ていい会社に就職しなければ幸せな人生は歩めない。努力は報われる。どれもこれも、真面目に考え込めばあまりに曖昧で思想であるとしか思えない。(大切なのは、我々自身の個別の人生を考えるとき、統計的なことはあまり意味がないということだ。99パーセントの人はこうなのだ、と統計でいわれ、肝心の自分が残りの1パーセントに当てはまってしまったときのことを考えてみればいい。自分にとっては、それが唯一の人生であるのだ。全体で1パーセントでも、個別の自分の物語ではそれがすべてなのだ。)
ほかならぬ自分の実存をかけて我々が物語に挑むとき、その体験の中で自分の中に立ち現れるのは非常に力強く、生き生きとしている何かである。その何かは自分の中にありながら、また意識の自我に常に大きく影響しながら、我々が決して認識し得なかった根本的な自我の姿なのだ。
物語ることの「治癒能力」
そのようにして自我を認識し、語ること自体が、治癒作用を持っている。それは友達や兄弟や親に、我が身に起こったことをただ話すだけでも気持ちを軽くしてくれることに似ている。物語が現実的であり、本当の意味で解決を避けて「逃避」をしていない限り、物語ることはその中で一つの解決をみることで心に区切りをつけるきっかけになる。「逃避」というのはつまり、本当に治癒を必要としている感情を語らない、ということだ。失恋した直後に甘いハッピーエンドの恋愛ものを見ても心の傷はいえない。失恋に直結した感情を物語の中で完結させてこそ、我々は感情というレベルでヒーリングを経験するものである。
科学の時代
さて、現代は科学の時代である。西欧の科学の姿勢というのは基本的に「客観性」なるものを前提としている。客観性など、これもまたうそ臭い言葉だ。世界を認識している我々の脳は、神経細胞のつながりに限界づけられた高々一臓器に過ぎない。それはつまり、物事を分析するとき、我々は脳が分析をするという現実から離れることは決してできないのだ。
また他人の物語を分析しようとするとき、それを分析する我々にも、物語に対する独自の感覚があることを前提にあくまで覚えていなくてはならない。
ともかく、科学の現代において、我々は世界の像を非常に違う風に捉えるようになった。意識や理性なるものが過度に肥大化し、その中での合理性が社会のどこでも求められるようになった。
宗教の、例えば創世記のような物語をイギリスやアメリカなどの国で大真面目に主張し信じている人々がいると、科学者は大抵葛藤を感じてそんなのは嘘だ、と今度は逆の極端、無神論へと走ることが多い。確かに片方が事実であれば、もう片方は偽物であるしかない。現実に対して、「唯一客観で全知全能な視点」、つまり絶対唯一神的な見方を極端に好む西欧人たちはとにかく宗教か科学かで終わらぬ論争を続けてきた。
しかしこうして考えてみると、我々はそれぞれの真実の段階をずらすことは出来ないのか、と不思議になってくる。どちらも真実ではあるが、その真実の次元が異なるのである。力を失ってきた人間の精神世界が、それによって復活することを期待せずにはいられないのである。
「オプト・アウト」の悲しみ
男の子は遊びでよく、自分を神に据えた壮大な世界の物語を創出するという。一方で神は物語に関わることができず、「オプト・アウト」=はぶかれる悲しみをも味わわなくてはいけないという。
現代の科学は人間を意識のないゾンビのような存在であると仮定している。その中で我々は世界とどのようにつながり、どのようなことを人生でし、どうして死んでゆくのか、そのような神話的な知を全く失してしまっているのだ。我々が物語りたいのは、世界と濃密な関係を持ちたい根源的な欲求があるからだと中村雄二郎氏は語る。科学を進めることで、我々は確かに多くのことを「効率的に」できるようになった。しかし効率的に生きて、我々が何をしようとしているのか、それがさっぱりわからなくなってしまったのだ。
物語とともに生きる
物語の重要性は強調しても強調しすぎることはないほどだ。何もかもがあまりにはっきりとしてしまう世界で、物語は我々に我々が生きる上で真に大切なことに目を向けさせてくれる。治癒作用ばかりではなく、当然、教育する作用も持っている。それは教訓を教え込む類のものもあるが、大抵そのような物語は十分に生き生きとしていない。物語の教育作用は、視点の転換、拡大にこそあるのだ。
物語の役割は、感情を浄化することである。そして以上に述べてきたように、それが感情を浄化する力を持つ理由は、それが物理的世界とは違った現実の層を持つからなのだ。
物語が現実の境界を飛び越えて心情の現実性をより純粋に追求するとき、語られるものは抽象性を高める。芸術において、我々が意味を十分に説明できなくても感動することが出来るのはそこに理由がある。
Writer:河野一平
Writer:河野一平