Monday, January 18, 2016

ノンフィクションとしてのフィクション

ノンフィクションとしてのフィクション

 なぜディズニーキャラクターは孤児の主人公が多いか。なぜドラゴンや魔女や悪魔と戦うことになるのか。なぜヨーロッパの物語は結末でヒーローとヒロインが結婚するのか。これらの物語に登場する「型」は、偶然のものだろうか。物語が担っている役割とは何か。なぜ我々は相当のエネルギーを投入して物語を語り、物語を吟味し、物語を作ろうとしていくのだろうか。

 十九世紀以降、科学の発展がある閾値を迎えて、人々の間に広くわたっていた「神話」の「偽り」が隠しきれなくなった。それがいかに「偽り」であるのか、それをここで考察してみようと思う。

おとぎ話は「嘘」ではない

 おとぎ話と現実とは同じではないと言う考えに対して、反対をする人はあまりいまい。いや、それをいくばくかの程度において現実的であることを認める人は多いだろうが、それが徹底的に現実的であることを主張する人はあまりいないだろう。ここでその大胆な肯定を試みよう。つまり、物語とは現実そのものであるのだ、という考えの主張である。
 現実的でないからこそ、物語は楽しめるのだ、物語は一つの現実逃避だ、という風に言う人間は少なくない。そこに一つ反論をしてみると、例えばK銀河系のK星の、とあるくぼ地にいる黄緑色の粘液状の生命体が星空に反応して「触手」を三十度ほど動かした、というフィクションは興味をそそる物語にはならない。いや、「銀河」や「星」や「くぼ地」や「黄緑色」などの「現実」を使っている点で、このフィクションは十分に現実から離れきれていないとすら言えるかもしれない。
 すなわち、物語が物語として生命力を持つためには「現実的」でなくてはならない。だから「現実逃避」というのはずいぶん不思議な言葉である。それは自分の個人的な「物語」から離れて、他者の、より普遍的な「物語」を求める行為に過ぎないのだ。
 確かにある日美少女なり美青年なりが現れて、「本当に」恋に落ちたりすることなどあまり現実的ではない。その「現実的ではない」とは、物理的な世界の次元ではあまり現実的ではないということである。しかしここで、別の次元の「現実感」を考えてみたらどうか。我々が我々の選択とは別に、心の中に美少女なり美青年なりを思い浮かべるのいうのは精神的な次元で「現実」であると言えないか。この発想の転換によって、物語も非常に違う表情を持って立ち現れてくるのである。

物語に対するユング派心理学者たちの解釈

 ユング派の心理学者らは人々の間で繰り返し語られ、おそらくは人々の心のひだによりしっくりいくように作り変えられてきた伝承の物語を、人間の人格へとアプローチする手段だと認識した。我々が集団として物理的な現実の世界から離れてまでも作り出した心の「現実感」たる物語の中に、我々の精神の構造を読み取ろうとしたのである。
 西欧の物語は例えば西欧における自我の確立の過程であると読み解かれた。まず主人公は男性であることが多い。それは西欧の自我が東洋に比べて男性的であるからだと考えられる。「男性的」というのは、例えば物事を明確に区別したり、言語的に主張をしたり、断然とした「父」のイメージを伴っているということである。ここで「父」のイメージと言ったが、このイメージは決して個人差がある個々の父のことを言っているわけではない。これは父らしさとでも言える普遍的なイメージである。ユングは患者の精神分析の過程で、どの患者にも共通する普遍的な無意識の層の存在を見つけ、それを「元型」と名づけた。河合隼雄氏のすばらしい定義に倣えば、父らしさとはすなわち「切る」作用であり、母らしさとは「包む」作用である。西欧の文化は男らしさを自我の基盤としてもっているのである。だからアニメーション作品の主人公が常に男っぽいことは必然であるとも言える。たとえ女の子が主人公に据えられても、その自我獲得の過程はやはり「型」から逃れられない。やはり物理的な「対決」が求められるのだ。
 ドラゴンや魔女に象徴されるのはしばしば両親に通じるものが多い。例えばヘンゼルとグレーテルの物語でヘンゼルとグレーテルを追い出すのは意地悪な母親である。父親は強烈な「母性」に圧倒されて力を失っている。そしてお菓子の家で子どもたちは魔女に出会い、その魔女は子どもたちを「食べよう」とするのである。母親の強烈な包容力は、時に程度を越して呑み込む力にまでなってしまう。それは子どもが自らのそばから離れていく個性化の過程を強力に押さえつけて自らの保護の下に還そうとする。その力は、かまどという「子宮」に押し返そうとするまでの破壊性を伴うことがあるのだ。ヘンゼルとグレーテルが父親の元に戻ってくると意地悪な母親はいなくなっている。この筋が母親と魔女の類似性を示唆しているのは明らかだろう。
 象徴的な「親殺し」を成し遂げた勇者はしかし、現実との接点を失ってしまっている。そこで結末に、勇者の男性性を補償するものとして、そして失われた現実との接点を回復させるものとして、ヒロインとの結婚が存在することが多い。だからそういう意味では、物語の中で決して「女性差別」が行われているわけではなく、むしろ女性は男性の偏りを補償するものとしてしっかりとした地位が与えられているのである。

物語ることは自我の根本的な一部に形を与えること

 物語を通じてわたしたちの心の中からこの世界に生まれてくるものは、わたしたちの心の中に起こっているさまざまな抽象的な出来事を我々の見ている世界の姿に当てはめなおして生まれてくる。心の中で起こったことは、我々に対する外の世界からの入力が、具体的な形から抽象的な形に解かされて漂う。
 物語を語ることは、自分の「心」の中で一体いかなる反応が起こっているのか、それに近づくための貴重な手がかりであり、そういう意味で非常に現実性を持っているものなのだ。ある特定の物語がどうしても好きになれない。その理由を究極に突き詰めてみると、自分の全く新しい側面にたどり着くことがある。あるいはむしろ、自分を捕らえている物語に対してはっと意識が届くかもしれない。
 「現実」とはいえ、所詮我々は本当の意味で客観的な世界像などもつことはできない。人間は彼が生きた人生の中で、恣意的に情報を選んで思想を練り上げ、それに「現実」と名をつけるのである。いい大学を出ていい会社に就職しなければ幸せな人生は歩めない。努力は報われる。どれもこれも、真面目に考え込めばあまりに曖昧で思想であるとしか思えない。(大切なのは、我々自身の個別の人生を考えるとき、統計的なことはあまり意味がないということだ。99パーセントの人はこうなのだ、と統計でいわれ、肝心の自分が残りの1パーセントに当てはまってしまったときのことを考えてみればいい。自分にとっては、それが唯一の人生であるのだ。全体で1パーセントでも、個別の自分の物語ではそれがすべてなのだ。)
 ほかならぬ自分の実存をかけて我々が物語に挑むとき、その体験の中で自分の中に立ち現れるのは非常に力強く、生き生きとしている何かである。その何かは自分の中にありながら、また意識の自我に常に大きく影響しながら、我々が決して認識し得なかった根本的な自我の姿なのだ。

物語ることの「治癒能力」

 そのようにして自我を認識し、語ること自体が、治癒作用を持っている。それは友達や兄弟や親に、我が身に起こったことをただ話すだけでも気持ちを軽くしてくれることに似ている。物語が現実的であり、本当の意味で解決を避けて「逃避」をしていない限り、物語ることはその中で一つの解決をみることで心に区切りをつけるきっかけになる。「逃避」というのはつまり、本当に治癒を必要としている感情を語らない、ということだ。失恋した直後に甘いハッピーエンドの恋愛ものを見ても心の傷はいえない。失恋に直結した感情を物語の中で完結させてこそ、我々は感情というレベルでヒーリングを経験するものである。

科学の時代

 さて、現代は科学の時代である。西欧の科学の姿勢というのは基本的に「客観性」なるものを前提としている。客観性など、これもまたうそ臭い言葉だ。世界を認識している我々の脳は、神経細胞のつながりに限界づけられた高々一臓器に過ぎない。それはつまり、物事を分析するとき、我々は脳が分析をするという現実から離れることは決してできないのだ。
 また他人の物語を分析しようとするとき、それを分析する我々にも、物語に対する独自の感覚があることを前提にあくまで覚えていなくてはならない。
 ともかく、科学の現代において、我々は世界の像を非常に違う風に捉えるようになった。意識や理性なるものが過度に肥大化し、その中での合理性が社会のどこでも求められるようになった。
 宗教の、例えば創世記のような物語をイギリスやアメリカなどの国で大真面目に主張し信じている人々がいると、科学者は大抵葛藤を感じてそんなのは嘘だ、と今度は逆の極端、無神論へと走ることが多い。確かに片方が事実であれば、もう片方は偽物であるしかない。現実に対して、「唯一客観で全知全能な視点」、つまり絶対唯一神的な見方を極端に好む西欧人たちはとにかく宗教か科学かで終わらぬ論争を続けてきた。
 しかしこうして考えてみると、我々はそれぞれの真実の段階をずらすことは出来ないのか、と不思議になってくる。どちらも真実ではあるが、その真実の次元が異なるのである。力を失ってきた人間の精神世界が、それによって復活することを期待せずにはいられないのである。

「オプト・アウト」の悲しみ

 男の子は遊びでよく、自分を神に据えた壮大な世界の物語を創出するという。一方で神は物語に関わることができず、「オプト・アウト」=はぶかれる悲しみをも味わわなくてはいけないという。
 現代の科学は人間を意識のないゾンビのような存在であると仮定している。その中で我々は世界とどのようにつながり、どのようなことを人生でし、どうして死んでゆくのか、そのような神話的な知を全く失してしまっているのだ。我々が物語りたいのは、世界と濃密な関係を持ちたい根源的な欲求があるからだと中村雄二郎氏は語る。科学を進めることで、我々は確かに多くのことを「効率的に」できるようになった。しかし効率的に生きて、我々が何をしようとしているのか、それがさっぱりわからなくなってしまったのだ。

物語とともに生きる

 物語の重要性は強調しても強調しすぎることはないほどだ。何もかもがあまりにはっきりとしてしまう世界で、物語は我々に我々が生きる上で真に大切なことに目を向けさせてくれる。治癒作用ばかりではなく、当然、教育する作用も持っている。それは教訓を教え込む類のものもあるが、大抵そのような物語は十分に生き生きとしていない。物語の教育作用は、視点の転換、拡大にこそあるのだ。
 物語の役割は、感情を浄化することである。そして以上に述べてきたように、それが感情を浄化する力を持つ理由は、それが物理的世界とは違った現実の層を持つからなのだ。


物語が現実の境界を飛び越えて心情の現実性をより純粋に追求するとき、語られるものは抽象性を高める。芸術において、我々が意味を十分に説明できなくても感動することが出来るのはそこに理由がある。

Writer:河野一平


Friday, January 15, 2016

人生はアートである。


私がまだ高校生で進路について悩んでいたとき、漠然とだけど、
クリエイティブな仕事に就きたいと考えていた。


でも当時まだ高校2年だった私は、どんな職業があるのかに関してはまるで無知で、
クリエイティブな仕事=広告関連のお仕事だと思っていた。




それから大学生になって、少しずつ視野は広がってきたものの、
それでもまだ広い世界の1/10000000の世界も見えていないんだろうなと思う。


・・・


世界には自分の知らない職業が溢れていて、自分はその中のほんのほんの一握りしか見えていない。
だから、今自分が見えている選択肢の中に自分の天職がある確率は、極めて低い。


もしイチローさんみたいに、幼少期から自分の視野の中に天職が入ってる人がいたら、
その人は本当にラッキーな人で、それは奇跡に近い。


だから、自分が本当にやりたいことが、今見えてる選択肢の中にないという状況は、極めて普通のことだと思う。


・・・


まだ本当に自分がやりたいかやりたくないのかわからないうちにゴールを一つに定め、
そこに到達するために計画を立てて実行することばかりを考えていたら、
他の可能性を見落としてしまう危険性がある。




まだよく自分を知っていないうちは、自分の中に大きな方向性だけを持って、
その中を動き回るのがいいと思う。


前に進めば必ず他の選択肢や自分の長所、短所がどんどん明確になってくる。
それに合わせて日々軌道修正をして、ゴールはフレキシブルに変わっていくのが自然だと思う。


例えば、私は一時UXデザイナーとして人を観察したり、websiteをつくってみたり、情報を可視化したりしていた。そこで実際にやってみて、自分はプログラミングの才能はないけど、情報を可視化したり、アイデア発想をするのが得意だということがわかった。


そういうスキルを使える職業というのは別にUXデザイナーだけではない。だから、UXデザイナーになることに固執して、自分の可能性を無意識で狭めるよりも、広い視野をもって常に新しい選択肢を模索していく。遠回りだけど、これが一番大事だと思う。


興味があることを実際してみて、気づきを得て、前に進む。その繰り返し。


周りからブレてると思われても、自分の中でつながりがあれば、全く問題ない。
だんだん天職に近づいていく、自分の感覚を信じるべきだと思う。




・・・


自分の中の大きな方向性とは、言い換えれば自分の本質。


これは私の持論だけど、幸せに生きて行く道というものは、いつも頭じゃなくて心がちゃんとわかっている。それに従っていけば、必ず自分も周りも幸せになるように、人生はできていると思う。


自分が正しい道を進んでいるとき、心は全力でGOという。逆に自分が道から逸れているとき、心は疲れ果てる。何かが違うぞ、と警告を出し続ける。


普段から心の声を意識できていたらいいけど、それができていない場合は、一度自分と向かい合う時間をとることが大事だと思う。自分の”ときめき”に対して「なぜ?」と繰り返し質問することによって、だんだん自分の心が見えてくる。


私はなぜ音楽が好きなのか?
→楽しいから


なぜ楽しいのか?
→音楽は言語を超えて意思疎通できるし、お客さんが笑顔になったら嬉しいから。

なぜ言語を超えて意思疎通したいのか?それは音楽でしかできないことか?
なぜ笑顔になったら嬉しいのか?人を笑顔にするために他に私ができることは?


こんな具合で、深く深く自分を追求していく。5、6回、何故?を自分に繰り返す。



ひたすら絞り込んで、ひとつの要素に落とし込む。それが自分の軸となる。


ちなみにわたしの軸は、楽しい経験をつくりだして、人を笑顔にすること。


この広く深い本質を満たす職種なんてものは、考えれば考えるほど出てくる。もし今存在する職業の中になければ、自分で新しい職を作ってしまえばいい。


だから、自分のやりたいことで食ってける人なんて1%しかいないよ、なんて嘘だと思う。
可能性は1パーセントどころか、無限である。目の前にある真っ白なキャンバスにどういう絵を描くのかは全くもって個人の自由で、だからこそ人生はアートなのだ。




Writer:本城ゆみ


Sunday, January 3, 2016

In the biginning

To explain this blog, I want to ask you "who you are?" For me, a suitable word that shows an essential quality of people is "Kodawari." (It means that Kodawari has another meaning. Check google!) That's why I use Kodawari for the name of this blog. I want you to talk about the topic that comes to your mind when you are asked: "What's your Kodawari?"

Generally speaking, "Kodawari" is different from what we learned at school. If you think learning other than class is a waste of time, I really recommend you to go back to study for entrance exam or find jobs because I do not think there is much "useful" information in here. Personally, school curriculum (especially in Japan) reduces room for talking about professor's Kodawari, and it makes study boring and students become studying automatically. I admit we cannot put everything in the school curriculum, but if people say you can study whatever you want, what do you want to study? Is it on the curriculum? Maybe, but you can also learn things out of the curriculum, which you really like. Then, I realize why not make the place where people study for their favorite things, so I open this blog. For learning, it is easy to get information from others, so I will put video and article, which is same as normal studying.


Also, it is important to learn from teachers, professors, presidents, who have knowledge and prestige, but when I listen to their talking, sometimes I feel bored because they do not really like topics. So, I think it is better to hear the topics from the lovers. For example, I will want to talk about trombone, but I am not a music college student or join in an orchestra. I just really like it. When I talk about the trombone, you may feel my enthusiasm. For me, that's worth to hear even if speakers or writers are nonprofessional.

Nowadays, we can take Ivy League's class online. Since we have the internet, it is easy to get much information.  Also, you can get a good education if you bring money and a good score to university. However, I think we should pursue more than the knowledge that can get from the university. Our way to learn is 2D type because the knowledge is broad but shallow. We need one more dimension. Get a deeper learning.

I want speakers, writers, and readers. I do not care what topics are!! If you want, please email us, or comment below.
email: kodawari.1234@gmail.com

Thanks!

Writer:Maki


Friday, January 1, 2016

はじめに

このブログの大きな問いは”あなたをあなたたらしめるものとは一体何か?”ということだ。自分のルーツ、自分の中を大きく占めるものは一体なんなのかを突き詰めて表現してほしいと思っている。それを一言で言い表したものというと”こだわり”がしっくりきたのでブログ名にした。”あなたのこだわりはなんですか?”そう問われた時思いつくものを語ってほしい。

たいていの場合この”こだわり”はいわゆる授業で教わるものとは少し違うと思う。授業のカリキュラム以外のことを省くのが主流になっているときに敢えてそれをしようとするのは馬鹿げているかもしれないが、まず第一にここは学校ではない。残念ながら受験勉強やら就活に直結することはここにあまり載っていないと思う。私は学校でいう無駄を捨て去ることによって勉強がつまらくなり、義務になって、機械的になっていっているような気がする。確かにカリキュラムに全てを詰め込むことはできないしそれを責めるつもりはさらさら無いが、もし学校以外にも学ぶ場所があったらそれは自分がやりたいことを追求するところになるのではないかと思う。また、学ぶことがつまらないと感じたなら楽しくする場を設けようじゃないかと考えこのブログを作った。学ぶのに手取り早いのは教えてもらうこと。インプットをするという面でも、情報を他者の噛み砕きを踏まえて得ることができるという面でも有用であると個人的には思っているのでビデオやら記事やら大体普段の勉強と同じ形態をとっている。(何かいい案があれば随時募集中。)


また、偉い人、たとえば先生だったり会社の社長だったりから学ぶことを必要とする時もあるが、実際のところそれよりも本当に好きなことを語っている人から聞いた方が話というものは楽しい。勝手に語っていただいて結構だがしかし楽しんで語ってほしい、というわけだ。私もトロンボーンについて後日語ろうかと考えているが、何を喋ろうかワクワクしている。いかにトロンボーンというものが素晴らしいものかを語りたい。私は別に音大生ではないしどこかのオーケストラに入っているわけでもないが、私が喋った方が楽しそうに見えることは請け合う。要はしゃべること、書くことに対してワクワクしてほしいのだ。後から後からやりたいことが出てきて手に余るような楽しさを感じでほしい。それは自分が好きなことなら勝手にそうなるし、そうなるならそれが自分の好きなことなのだと思う。学校の授業がなぜつまらないのかは生徒のやる気の問題もあるが、教える側がつまらなさそうにしていればそれはつまらない。教える側も自分のやりたくないことまで教えなければいけないからつまらなさそうにしているのだと思う。好きなことを喋っている人を見れば自ずと、つまらないと思っていた学校のカリキュラム通りだったところで楽しいのではないか。

今はオンラインで一流大学の授業を簡単に見れる時代になってきている。浅く広くということはもう既に手軽にできるし、お金と良いスコアを持って一流大学に行き授業を受けてもいい。でも知識を増やすその先に求めることは何かと言ったら奥行きではないだろうか?一人の人が生きてきてきた中で培った知恵や技術をオンラインで見て、それをより深めたり、知識を得るために調べることが新しい学びだと思う。そんなこんなで、あなたのこだわりを聞かせてほしい。こだわりを聞くことを必要としている人がたくさんいると思う少なくとも私は人がどんなこだわりを持って生きているのか知りたい。



要約:学校以外でも楽しく学ぼうの会、名付けてKodawariを発足します!ジャンルは問いません、喋る人、記事を書いてくれる人、閲覧してくれる人全て募集中です。よろしくお願いします。
email: kodawari.1234@gmail.com

Writer: Maki