Sunday, March 6, 2016

教育の目的は何か ―還元主義的解釈―

 学問を語るものなら誰でも、自らの学問をいかに語るのかその方法論の提示に関心を寄せずにはいられない。学ぶことはほぼすなわち教わることであり、また教えていくことであるのだ。であるから、学習の全体を、学習の一歩外に出て眺めてみるという「教育論」の検討は、教育学者たちの議題のみではなかったし、そうであるべきでもなかった。生物学者であろうが、物理学者であろうが、経済学者であろうが、古典文学者であろうが、はたまた法学者であろうが、いかに次の世代を教育していくかというのは深く探求をせざるを得ない問題であるはずだ。なぜなら意識が何らかの合意に至ることを目的としている以上、自分が理解した意味内容を自分の中に完結させないということがどうしても必要になってくるからだ。要は教えなくてはならない。他人に伝えなくてはならない。
 時代の変遷とともに、教育というのは非常に異なる目的を担ってきた。もちろん、多くの人が知るように、教育はかつては特権であり、そうであったがゆえに一つの文化階級を作り上げるのに寄与していた。教育の内容はいわゆる「実用的」なものにとどまらず、例えば音楽や詩の教養や階級に共有される情報の伝達も図られた。わざわざ中世の貴族の教養を浮かべなくても、実は初期の東京大学の入試問題を見てみればすぐわかる。夏目漱石や森鴎外の小説の冒頭を読ませて、主人公とヒロインを答えさせる。これはただの「知識問題」ではなく、ある特定階級ならば当然知っているはずの知識を試しているのだ。それは夏目の小説をいかに味わっているかが焦点になるのではなく、特定階級内の共通了解にいかに精通しているかを試しているのである。だからこれらの入試問題に夏目の小説の味わいに対する理解を測ることを期待するのは的外れというものである。前提から、そうではないときっぱりわかっているのだから。
 時代が下ってくると、社会構造に徹底的な変革が生じ、それとともに教育も大々的に変わらざるを得なくなった。戦後の教育の方向は、階級の否定である。言葉を変えれば、教育の大衆化だ。この大衆化に伴って、教育の目的は必ずしも特定階級の文化の伝達に縛られなくなった。というより、大衆教育は社会階級の傾向を弱めることをこそ目的としてきた。教育には平等の思想が付加された。誰でも学べるように学習内容の一般化が図られた。結果として誕生した現代の「インテリ」たちは、いわば大衆の延長に立つ者たちである。彼らは学んだことを元に独特の共同体を作り上げるほど特殊性を持たない。それはことに、最も根源的な価値観や規範について当てはまるのである。いわば、東大生や京大生といったエリートたちが、「普通の人」になった時代なのである。これは悲しむべきことだろうか。これこそ、戦後の社会が一直線に目指してきたものではなかったのか。その意味で、社会はある一定の成功を見ているとわたしは決断していいと思う。
 しかし同時に、学びそのものの感触や質、何より、目的すらも大きくシフトしてしまったように思う。いまや学校教育を受けることは職業選択の幅を広げるための重要な一段階になってしまった。ここで議論は複雑になる。現代において、我々は何を目的にして次の世代を教育すべきなのか。
 この問題を分析するに当たって、わたしは非常に古典的な手法を採用しようと思う。多くの場合において、非常に役に立つ手法ではあるが、同時に現象の極めて重要な側面を知らず知らずのうちにそぎ落としてしまう危険のある手法でもあることを指摘しておこう。還元主義である。
 還元主義はルネ・デカルトが「複雑な系は十分に理解可能な下位の単純な系に分け、その総和で理解すればよい」と語ったその手法である。生物学が知りたい。そこで群から個体、器官、組織、細胞、細胞小器官、遺伝子とぐんぐん小さい要素を分析していき、それを知り尽くしたのち合わせることによって生物体系の理解ができるとするその姿勢のことを言う。生物学にしろ物理学にしろ、実験器具の精密化とともにミクロへ、ミクロへ、分子生物学、量子力学に進もうとしてきた。これらは十九世紀以降の科学に対する姿勢の延長にあるもので、科学の画期的な進歩を支えたといえる。この手法には「全体観の喪失」という重大な欠陥があるが、我々の脳は起こっている事象をまとめて認識するほど優れていないのもまた哀しい事実である。還元主義の欠点が、この還元主義的分析の論文に現れてしまうことは重々承知であるが、それでも教育という複雑系を理解するためにこの手法を使わざるを得ないということをここに断っておきたい。少なくともわたしがわたしの手法の分析に盲目ではないことを示しておきたいのである。
 分割するにしろ、もともとは「分かれるはずではなかったもの」を分けていくのだから、当然厳密な定義を行うことは出来ない。それぞれの目的が互いに重なり合っている部分もあるし、その中にさらに多様な部分を含んでいることも当然ある。ただ単純に、物事をひとまずより展望よく整理するための道具として、ものさしをいくつか紹介しようと試みているのだ。それらは互いにつながりあって一つであると言えばそうであるともいえるし、ごったにしてまとめて考えようとするとうまくいかないのだから、やはり違う問題だと言えばそうでもある。これらの前提は議論を進める上で極めて重要であるから、ひとまずここで明らかにしておきたかった。


再生産的目的
 まず教育の第一の目的は、親の持っていたものを子に伝えるためである。命に限りのある人間は、一つの世代で構成した何らかの秩序を教育によってのみ保つことが出来る。そうでもなければ、我々は同じことを世代ごとに繰り返さなくてはならなくなる。(厳密には全く同じことを繰り返すわけではないが、意識に変化や前進を期待しないとき、我々はもう自然の選択圧が適当に個体を淘汰してくれ、非常に緩慢な速度でじっくりと遺伝子レベルで改革が行われることを期待しなくてはならなくなる。人の認識レベルではこの「ビルトイン」の改革法はあまりに生易しすぎる。)
 親の持つもので、子どもに伝えられるのはまず非言語的な価値観や道徳観である。物事がこうあるべきであるとする倫理観の論理性を先天的にもつことはできない。論理というのは、世界に対する認識から生まれてくるものだ。世界に対して接触の経験がそもそも少なかった子どもに対して、世界との安定したつながりを持つためには無疑問にまず親の基準を採用しなくてはならない。「うちのお母さんが言っていたもん」と子どもが盛んに口にするのは、それが彼ら、彼女らの「論理世界」の中でベースに存在しているものだからである。(これはフランスの学者ピエール・ブルデューが言うところの「文化資本cultural capital」として教育が扱われるということだ。)
 当然、親の思考や教養が結果として子に反映される。社会全体に階級が存在し、その階級が高度に分化している場合、社会の中には多くの文化が階級ごとに存在することになる。ここで挙げる教育の第一の目的はこの階級の再生産につながってくる。
 この階級の再生産という目的は、教育の長い歴史の中で極めて主流になってきたものであると言っていいだろう。例えば貴族教育を考えてみればわかる。貴族と呼ばれた中世ヨーロッパの上流階級は音楽や語学の素養を身につけなくてはならなかった。これは職業的な実用性を意図したものではないことは明らかである。それらが彼ら、彼女らの階級の中で共有されていたからだ。階級が階級として親和性を高め、同時に排他性を高めるためにはその階級に共有される文化を十分に発達させる必要がある。娯楽の仕方や話題といった興味の範囲に至るまで、決定的に階級差は作り上げられた。それは階級を作った瞬間に不可避的に誕生し、誕生することによって階級差を深めていくのだ。
 一方で労働階級には常に反知性主義のような文化が存在した。本など読む暇があったら、飯を食っていくのに実用的な技能を身につけた方がよほどましである。実際、ドイツなどのヨーロッパ諸国はかなり時代が下るまで庶民は出来がよくても神学校に進むか、それほど勉強ができないようなら(そして階級的な影響で、大抵所得階級と学問に対する能力発揮の大きさは正の相関を示す)工場にでも見習いになって早く手に職をつけようとしたのである。
 階級再生産は今では思想としては批判されておきながら、現実としては決して消えたわけではない。現代においても学生の成績と親の所得は強い相関を示す。それは所得が、言葉を変えれば金が子どもの頭を良くするわけではないのだ。高所得層が子どもの成績改善に貢献するような、例えば辞書やパソコンや本などといった資源によりアクセスしやすいからだろうと思われる。所得ばかりではなく、親の認識、親の教養が子に譲り受けられ、結果親と同じように学問に傾いたり芸術に傾いたりはたまたビジネスに傾いたりするのである。
 しかし戦後日本は一直線に大衆化した。その結果、文化的な意味での階層はすっかり解体されてしまったと言っていいだろう。全国規模で高等教育の推進が行われたとき、我々は知識の目的を「上流階級の育成」から完全にシフトしたのだ。学問は誰にでも平等にアクセスしやすく、誰にでも平等に身につけやすく、役立たなくてはならない。この元で誕生した新たな高等教育社会において、文化的な上層階級を作り上げることは不可能になってしまった。社会におけるインテリはどこを正しても普通の人である。彼らは倫理観において「洗練」されているわけでもなければ、情緒的であろうなどとも思わない。彼らは単純に普通の人々をある特定の指標を元に縦一列に並べたときにその頭の辺りにいた人々に過ぎなくなっている。一口に知性的とは言ってみても、その「知性」の定義はより、いわば平凡にならざるを得ないのだ。つまり知性を備えた人間の生み出した定義のようには感じさせず、誰が、それは教育を受けていない人も含めて誰もが短絡に「頭がいい」と思える価値観が定着した下に生まれた定義である。通常、それは単純な指標の元に数字的に表される。数字になってくれれば、頭がよくなくても頭がよいか悪いか判断できてしまう。本当だろうか。そう考えたら大衆の域を出ることになろう。あらゆる価値観の中で、多くの人々にとって最もわかりやすく、納得しやすいものが定着しやすいのだ。当然、定着したからと言って正しい保証はどこにもない。しかしとりあえず大衆がついてきているのだから、そこにはひとまずの安心感があるのだ。
 大衆社会の中で、人々の価値観は均質化してしまう。東大生に聞こうが、高卒就職組に聞こうが、彼らの持っている道徳性はほぼ同じである。この道徳が文化的、歴史的に見て極めて特殊性をもつとき、我々はそれを社会的な「教育」の成果であると結論付けることが出来よう。社会全体は非常に予測のしづらい複雑な系として絶えず変化し続けるが、その変化の連続性を保っているのが、すなわち前の世代の傾向を地続きに次の世代に移していく働きをしているのが教育のまず第一の非常に重要な目的であろう。


 教育は我々の社会構造、文化構造、そこからなる集合的無意識の影響を強く受けているため、我々が真の意味で「中立的な」教育を行うことは出来ない。しかし、教育の中立性は常に主張されてきたことでもある。それは教育が偏った知識や価値観を子どもたちに植え付けてしまうことを恐れてのことである。心情は理解できなくもないが、しかしそれで「教育は中立」というクリシェを肯定するのはいささか楽観的過ぎる。なぜなら我々は我々が認識をしようとするときに使わねばならぬ脳という器官が中立ではないことをよく知っているからである。「熱」という言葉の温かさの感触を取り去って概念の骨組みだけにしたところで、それを言葉という枠組みに当てはめて認識するところまでは取り去ることは出来ない。そして我々が言葉を認識するとき、その言葉は定義としてインプットされたわけではなく、経験的に意味内容が抽出されたものであるのだ。どこをとっても主観的であり、とても「客観」だとか「中立」だとかいえたものではない。
 つまり教師が生徒に伝える内容の一切は、決して中立たりえないということだ。科学を教えるにしろ、教える順序や言葉の細部が科学の裏の「思想」を届けてしまう。教育をするとは、すなわち世界に名前や形を与えることである。はじめは形なき世界に形を与えるのだから、そんな勝手な話はない。だから切り取った形が、元のものと同じでないことは境界線が存在しているのかしていないのかの差だけにおいても明確であろう。


職業的目的


 大衆化した教育は、それまでの教育とは非常に異なる事情を背負うことになってしまった。それはつまり、一部の特権階級以外の生き方にも適応されなくてはならなくなったのだ。ダーウィンやマルクスに代表されるように、かつてはそれほど働かなくても、好きな研究に現を抜かしていられる資産化階級が存在し、学びの目的は彼らにとっては娯楽と同様に、学びという行いそのものにあるのであった。しかし、大衆はそうも言ってはいられない。働いて金を稼ぎ、食べ物や生活用品を買って家賃を納めなければならない。彼らにも高等教育が行き届くに連れて、高校や大学といったより現実に還元しづらい学問群にも、切々と実利益への還元が求められるようになってしまったのである。
 現代社会において、職業的目的を帯びた教育というのは、もっと具体的にはいかなることを目指しているのであろうか。それは学問を使用の手段としてみるか、選別の手段としてみるかで二分できる。どちらも学問そのものを単純に身につけるだけでは果たされたとはいえない目的である。それゆえに、学問の純粋さというのもやや欠けてくる。職業的目的において、学問は何かに使用されて始めて目的を達成したと言える。


  1. 専門職の知識を伝達するものとしての
 まず、科学の発展とともに、技術が進歩した側面が教育に影響を与えた。つまり、職業が単純に熟練の技巧のみではなく、専門的な科学知識が求められるようになったのだ。西欧において高等教育が担ってきた自由七科、リベラルアーツに対して、現代では非自由七科、ノン・リベラルアーツなるものが台頭し、むしろこちらの方が高等教育で中心的になってきた。前に述べたように、高等教育は基本的には特権階級に属する階級の文化を作り上げるためのものだったので、はじめ大学で取り組まれる学問の多くは学問そのもののために行われるリベラルアーツ系の教科が占めていた。リベラルアーツとは文学や物理、化学、生物学といった科学、心理学や経済学など、すぐさま職業に還元されることのない科目のことである。一方でノン・リベラルアーツはコンピュータ・サイエンスやエンジニアリングといった工業系、経営学など、職業教育としての側面が強い。
 高等教育に新たに授けられた職業的目的のまず第一の項目は、こうして学問を使用の手段として位置づけるこれらのノン・リベラルアーツ教科である。
 このノン・リベラルアーツだが、今ではリベラルアーツの割合を追い抜いて学生の専攻では圧倒的な多数派になっている。それゆえに、大学の目的自身が職業的な専門教育のためのものに偏らざるを得なくなってしまう。


  1. 人材選択の指標としての
 当然、職業機会の増大として教育が見られることも多くある。このあたりが還元主義的分析ではうまくいかないところもあるので、指摘しておくと、職業機会の増大は前に述べた職業的専門教育を受けたから、という要素と深く関わりあっているがゆえに、こうして完全に並列関係にすることは出来ない。しかし、そればかりではない目的をここに汲み取るために、こうして新たな項目として建てた。
 教育を受けたことは、それ自身で一つの保証になる。もはや家柄による選択が許されなくなった大衆社会においては、しかし、みながみな好きなようにするわけにもいかなかったのはもちろんである。人間の高度に役割が分化した社会においては、好きなだけ特定の職業を置くわけにはいかないし、農家やごみ処理といった社会低層に分類されがちな職業に誰も置かないわけにもいかないのだ。農家の子は農家、医者の子は医者という封建的な制度は、その倫理的な問題を別にすれば、社会においての役割分担を実にうまく取り繕ったと言える。このような制度の下では特定の職業に過剰に人が殺到し、コストのかかる闘争を行わなくてもいい。一方でもちろん、当の社会の事情が変わって、職業の過剰や不足の問題に直面しなくてはいけないのは封建制度でも同じことであるが。
 親の職業によるこの職業の分類を行わないとするならば、十七世紀以降発達してきた民主主義や大衆社会の元、「特権階級」によらずに「職業階級」を作るためにはどうすればいいのか。もちろん、教育、訓練、経験による選別を導入したのである。もっとも、職業訓練やある特定の経験すらも吸収してしまったノン・リベラルアーツの台頭以降、これらはまとめて教育という要素であると言ってしまっていい。


 教育が職業目的となったとき、学びは商業行為に近づいてしまう。それは学びという労働と、それによって得られる社会的成功の「等価交換」を生徒たちが目指してしまうということである。教育の再生産的目的は形を変えて現代にも残っていることはすでに指摘したが、例えば日本では共同体の変化の惰性が極めて強く、それを意識的にしろ無意識的にしろ知っている構成員たちはそもそも入る時点で、例えば入社試験、例えば大学受験で多大な「努力」という資本を投資して階級の報酬を得ようとするのである。このとき、彼らは学ぶことをやめる。彼らは彼らの世界を根本から変化させる認識の革新を忘れる。このような職業的目的においては、学びは、そして教育は道具に過ぎない。
 職業的目的に徹した教育においては、ともかく実用性が強調される。「使える学問を」という近年の運動や、「先生、それ何に使えますか」という学生の質問の増加は、なにも現実の世界に学んだことを当てはめてみようとわくわくしている印ではない(その証拠に、質問はするが、実際にコストのかかる実用の実験はしようとしてみない。多くの生徒は学習内容にはどうでも良さそうにしているが、それが実利益を生むことについてはどうでもよくないのだ。というより、それが彼らの唯一の動機であり目的である)。そのような環境で学びが停滞する可能性は大いにある。


自己目的


視野拡大のための
 教育の第三の目的は、教育されること、そのものである。つまり、使おうが使うまいが、学んでしまったら元には戻れない、つまり学びはそういう自己啓発としての、新たな視点を獲得するものとしての目的を持っているということだ。世界に対して、新たな認識を得るために学ぶのである。
 究極的に客観的な「神」の世界などどこまでいっても仮想の世界であり、我々が確かだと確信できるのは我々の認識でしかないというのがデカルトの「コギト・エルゴ・スム」であった。であるから、認識を変えることはすなわちある一人にとっての世界を変えることである。我々は学びの極めて多くの場合においてこの視野拡大を究極目的にしていることを忘れてはならない。
 例えば科学者が科学を行うのは多くの場合において学びの自己目的によるものである。人々が物語を読むのは、物語がどうなるのか知ることそのものに目的があることが多い。そのようにして、「知ること」そのものに究極の価値を置くのである。これは箸の使い方を学ぶこととは異なる。箸の使い方はただ学んでも仕方がない、使わなければならない。しかし世にニーチェなる男がかつて生き、このようなことを言ったのだ、ということを学ぶのは、決してニーチェを使うためではない。何よりもまず、ニーチェを知るために知るのだ。
 この教育の自己目的は、わたしにカントの定言命法を思い起こさせる。せよ、という純粋な動機によってのみ、道徳的な行いをすることが出来るとカントは考えた。彼ならば仮言命法的なもし…ならばの教育を嫌ったろうと思われる。


自立のための
 こうした自己目的の知識を蓄えていくことは、同時に権威からの自立も可能にする。先に述べたように、我々の最初の倫理観、知識は権威の与える知識を無批判に受容することから始まっていく。青年期に達したとき、大人になるために我々はその権威を疑い、離れていく必要がある。権威と根本的な不一致を経験しても、自分が正しいと信じることは脅かされなくなる必要がある。この自立のために、知識は大いに役立つ。それは世界に対して、教育が与えた権威に代わる新たな接触方法である。


教育論議
 教育の良し悪しを我々が批評するときに、多くの場合我々は教育の目的に対する認識に重大な違いをもったまま議論する。であるから、教育批評のようで、実はどの目的の方が大事か、という議論になってしまったり、あるいは「それも大事だけど」と無理に突っ張った議論になってしまったりしやすい。これらの目的を還元主義的に提示することの利益は、まず第一にこれらの論点をより明確に認識できるようにするためである。これらの目的はもちろん、互いにオーバーラップし合い、またときには純粋な意味では同時追求不可能であったりする。学問そのものを本当に極めようとすれば、どうしてもしばらく実用性は置いておかなくてはいけないし、どういう目的をとるにしろ、結局は階級再生産へ向かってしまう事だって多いだろう。しかし少なくとも、例えば「使えない知識ばっかり教えられる」という批判に対して、「何に使うことを前提としているのか、仕事か、日常生活か、はたまたさらに先の学問においてか」という問いを立てることが出来る。
 教育論議は、その先にこそ成立すべきである。つまり、今度はその目的の妥当性を吟味していくのである。階級再生産としての教育はどういう利点、不利点を持つか、他の目的はどうか、それを考えるとき、我々は初めて教育について新たな可能性を探る道を進むことが出来るのだ。

Writer:河野一平

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