Thursday, November 10, 2016

通論の怪しさ 自発幻想と構造による疎外

論の安全地帯
 ここに提示しようとする仮説は決して新しいものではなく、結果的におそらくデヴィット・ヒュームの論の繰り返しになるにすぎないように思う。しかしこの論の考察は個人的な次元から端を発するものである。
 我々が「論理的」に論を展開するとき、論理の必然性以上に、その論となる感情的必要性のほうが支配的な影響力を持っている。我々の洞察一切はあくまで個人的必要のもとに生まれ、個人的必要性に合わせて深化されていくものであり、したがって非常に根本的な部分でまず恣意的であり、あらゆる細部は先天的な必要論理に付加されるものである。論を展開することはしたがって大抵において自己の世界像の肯定行為であり、多くの議論は論理性の名の下で、あくまで自分の世界像の主張及び共有の場に徹底される。そこには論理以前に人間関係があり、そのもとに調和的な論が修正されるものである。論理は多くの場合において絶対であるというより、場面と状況に大いに依存する動的な存在なのではないか。
 近代論理学の試みは、しかし、真逆のベクトルを持っていたといえる。それは各個人を超えて、広く人間という次元で常に時間及び状況に独立に真である法則の発見に向いていた。その姿勢の原型は古代ギリシャから受け継がれてきた。アリストテレスの詭弁を取り除こうとする三段論法の流れを西洋の近代知は脈々と受け継いできたのである。
 これは確かにより厳密な論である科学の誕生に貢献したが、科学の厳密性は最低限の一般化のみしか行わない日進月歩のプロセス、またそれを解釈するのがあくまで人間という限界を超えられてもいないことから、何も絶対的な真理追及の理想手段ではないのである。しかしこれは詭弁よりはよほどにましなものではある。
 しかしこのましさは進歩であったと同時に新たな幻想を生み出した。我々は客観的論理の名のもとに、論理から感情を排除する限界を忘れがちになってしまったように思う。
 我々の思考においては常に二つの力がせめぎあっている。そうある、と知覚する力とそうあってほしいと願う力だ。この二つは厳密には二つと分画しうるものではなく、互いに絡み合い、フィードバックし合い、我々の世界観を構築している。わたしがまずここで断っておきたいのは、前者の「そうある」という知覚が決してありのままをそのまま受け取るという知覚ではないということだ。それは我々が予知しえないほどの生理的な操作を含んだものなのである。
 大切なことは、我々が結局いかに恣意的に論を展開する存在であるというかを認識し、常に自己反省をすることである。教養のある知識人のしるしはなにも圧倒的な知識量ではない。知識人となった証はすぐには答えを出さずに考え、自分の考えたことを少し距離をもって吟味しなおすことだ。もちろん、以上のような論そのものが、結果的に著者たるわたしばかりを安全地帯においてしまうことは承知である。承知の上で、それは仕方がないと言っている。(これもわたしを安全地帯に置くセリフだ。)少なくともどんな議論をするうえでも、そのような地の限界を常に認識すべきだと言っているのである。

メディアの興亡
 大統領選が昨日終わり、まさかのトランプの勝利に、わたしも衝撃を受けた。何より互いに非常に攻撃的な二派にアメリカが分かれつつあるという感覚を受けた。結果は非常に僅差、獲得票数ではヒラリーが勝利を収めたにもかかわらず、選挙区でトランプが競り切った。
 翌日から、アメリカもついにここまで堕ちた、とがっかりするわたしに、数人の友人が、今やクリシェとなっているメディア論を展開した。メディアは操作されている、それに泳がされているだけなのだ、と。そういう手の批判はまず知覚の仕方そのものが問題になってくるのでなかなか聞き入れがたいものがある。わたしはすんなり彼らのメディア論を受け入れられなかった。あるいは、「こうなのだ、知らなかったか」という構図が単純に腹立たしかったから理由が欲しかっただけかもしれない。
 ただ、そもそも「メディアはだめだ」とする情報をクリシェとして定着するほどに集団的に我々が共有するのなら、それはいったい、どこから媒介されてきたのか。広く情報を媒介するものをメディアと呼ぶのであれば、メディア陰謀説すらもメディアから来たのではないのか、と思えてくる。我々にメディアの退廃を感じさせるものは物質でなく、それこそメディアが媒介する情報である、という点に異論を持つ人間はあるまい。メディアが信じられない、とメディアから聞くことは実に自己言及的である。信じたらいいのかよくないのかわからない。
 ここでわたしはそもそもメディアを広く情報を媒介するもの全般と勝手に定義した。人々が「メディア」と呼ぶものはもっと狭義に、テレビ、新聞、雑誌等のマスコミを指していることが多い。これらの情報源を「不正確」と結論付ける決定証拠は何も数値の解読法の具体的な誤謬であるとか、論理構築のおかしさであるとか、いわゆる論理性に裏付けられるものというわけではない。我々をメディア不信にするのはそのような社会的風潮であり、その風潮から生まれる別のメディアによる警告である。その別の情報媒体は人づてであるかもしれないし、あるいはそれこそマスコミからかもしれない。ここで重要なのは、人々は大衆として、メディアの正確性をその他別のメディアを通さずに確認する能力を持ち合わせないという事実、及び、そうでないにもかかわらず、そのような現実感を裏付ける構造が我々の周りに存在するということである。
 情報の氾濫する今日の世界で、加速的に重要になる情報の有用性、信ぴょう性。しかしその選抜基準でさえも、そもそも何らかの情報の重みづけをなしたのちでなければなすことはできない。情報の、ひいては知覚の不確定性原理である。見ないことにはわからないが、見るという行為自体が決してありのままをプロジェクトするものではないので、見ても結局わかるかどうかは恣意的判断になるのだということだ。
 単純に「メディアのせいだ」と言うのは簡単である。しかしわたしはその答えに満足することはできない。メディアを動かしている力は何なのか。財閥や各権力組織か。しかしそれらを動かすもっと大きな力を、大衆は持ってはいまいか。例えば、視聴率やクリック数やスクープは一部の権力組織が「見せたい」と思っている現実というよりは、大衆が「見たい」と思っているもののプロジェクションである。では大衆が「見たい」と思っているものはいかなる力の影響下にあるか。それは歴史的な文脈における社会構造や文化、言葉、また原始的な生物的欲求だろう。ならば我々が考察すべきなのはメディアの罪ではなく、社会構造であり、文化、言葉、生物的欲求のほうではないのか。メディアのせいというのはあまりにモデルを単純化して思考停止を招くのではないか。

高等教育機会均等の落とし穴
 わたしが現在住んでいる米カリフォルニア州はアメリカでも最初に高等教育に大衆の参入を促した。少し前まで、カリフォルニア州民であれば全く学費を払うことなく、それでいて十分に高水準な州立大学に通うことができたし、カリフォルニアの財政が悪化した今でも、多くの生徒はファイナンシャルエイドを受けて州立大学へ通う。
 自由市場主義が過度に加速したアメリカでは、ほとんどどの分野においても営利企業による利潤優先の運営方針によって人間疎外が起きていることが問題になっている。労働環境や条件がいち早く近代化した国であるにもかかわらず、皮肉なことにも制度的には結局アメリカはヨーロッパに遠く及ばぬ後進国である。医療保険は改善をほとんど見せず、福祉制度はないに等しい。そして高等教育で教育の在り方以上にどうしても議論になるのが学費の尋常でない高騰である。アメリカの名門大学は選抜においてのみでなく、諸費用に面においてもうなぎ上りの「ランナウェイ現象」を見せている。具体的な数字を言えば、七十年代に比べて競争率は四、五倍以上に、学費は実に十倍以上の増加を見せた。自分で働いて学費を払うことができた時代はとうに終わり、今は親から援助を受けて間に合う生徒すら珍しくなってしまった。結果、巨額に膨れ上がる上に自己破産しても面際されず、子供にまで「遺伝」してしまう「死んでも逃れられない」学資ローンに頼る生徒が激増、その総額は国民全体でついに十兆ドルを超えている。
 そこで現在、この社会問題に対して当然、公教育のあるべき姿が議論される。主な論点は経済的出自に関わらず、平等に大学に入れるようにすべきだとする機会均等主義者、加熱する就職競争の市場において有利さを獲得するために職業訓練校に変わりつつある高等教育の場に対し、もっと大切なことがあるのではないのかとする教養教育主義者、はたまたきっぱり高等教育は社会準備の場なのだからと職業準備教育の徹底を求める実益主義者などだ。現在、アメリカの論壇には各主義者が乱立し、またこれらは互いに微妙に主張が異なるものであるから、高等教育に興味を持つものとしていささか釈然としないものがあった。
 例えば機会均等主義者は現在の問題はともかく誰もが十分に良質な大学に入学する平等なチャンスがないことを憂う。彼らの理想は誰もが各自のバックグラウンドに気兼ねすることなく大学に入学することを決意できる社会である。彼らは大学の目的を大衆教育だと思っているものだから、大衆教育がではどのようにあるべきなのかという問いに対しては教養主義と実益主義の二派にわかれる。ともかく高等教育は大衆のもの、特定集団を締め出すのはよくないという立場だ。
 この立場にはあらゆる社会的な場面において万人に広く機会を開け放つ現代社会の傾向にまさにドンピシャで「正しい」倫理として受け入れられがちであるが、大衆教育に伴ういくつかの問題をはらんでいる。まず、それでは何を教育すべきか、という問題にはほとんど具体的な統一性を持つことができないということだ。大衆のニーズに応えることはほとんど必然的に求められてしまうが、大衆と文化人、教養人がどこか相いれない部分を感じるのは何もわたしだけではないだろう。もちろん理想を言えば、そもそも公教育の究極な目的は大衆を文化人、教養人に仕立てることであった。しかし大衆教育は一括に画一的な教育を行う機能的な必要性があるものだから、同時に教養人的な独立した思考を抑えてしまうという側面がある。多人数のクラスでカリキュラムに縛られれば知識の予期せぬリンクも発達させる前に無視して進んでしまうことが多い。日本に比べてアメリカはまだ「各自権威に惑わされず自ら考える能力を」といわゆるクリティカルシンキングを促進する土壌はしっかりしているが、そういう土壌一切が実は思考をある方向に固めてしまう構造的原因になっていることにはやはり十分に意識が届いているわけではない。真の教養人はこれらすべての外側に出て考察をする能力が求められる。先人から分析の道具を得ながら、「今、ここ」にそれらがどのような妥当性を持つか考察をする必要がある。それに対する意識的な試みは確かにアメリカの教育において比較的顕著にみられる。しかし大抵の設問は壮大な問いを提起しながら、大抵の学生の回答は世に通じる概念構造をほぼそのまま内包したものであり、そこまで問題に有意義な深化を与えているわけでない。しかもこれらの設問に対する回答がただ考察を深めるという以上に、各生徒の将来に直接関わってしまうという大衆教育独特の利害が伴ってしまうと、考察をするより無難に一般論を述べてしまおうとする圧力もおのずとかかってしまうものである。知識人、教養人は各個人を超えて社会の構造を考察し、今現在の問題を指摘し、その行く先を憂う存在でなくてはならないが、大衆教育はどうしても各個人の利益を考えずにはいられない側面がある。「わたしの将来」など一度棚上げして、ある対象に対して集中することは教養人としてどうしても不可欠なことであるが、この自分を超えて「宇宙を見る余裕」とでもいうべきものが大衆的高等教育には究極的に欠けているように思えるのである。「自分のことができないと、もっと大きな構造のことなど見えない」という反論は成り立たない。さすがに食う寝るところに困るほどなのであれば当然学問などやっている余裕はないだろうが、高等教育のそもそもの目的は「自分のことを分析するために自分から目をそらしてみること」なのである。大学の正式な科目に個人の個人性ばかりを追求するものなど一つもないことからそれがうかがえるだろう。
 もちろん、その余裕が若者の心をすぐさまつかまなくても、生涯生きるどこかのステップにおいて高等教育が授ける思考を用いることができるのであれば高等教育も全く無駄ではない。ただ、ウォールストリートが今日ほどの繁栄を見せ、アイヴィーリーグを卒業する学生の多くの割合がファイナンスに進み、フォーブスなどのマスコミが大学を卒業後の収入の多寡で一義的に評価する雰囲気の定着している現在のアメリカで、高等教育の広まりと同程度にその余裕が広まっているようには思えないのである。ただ単純に公教育を肯定し、大衆になるべく多く教育を施せばよいという論点は公教育が今日ほど広まる前でならまだいくばくかの妥当性を持つことができただろうが、わたしはいい加減に公教育そのものの問題点を検討する次のステップに進んでもいいころではないかと思うのだ。

通論から抜け出す能力こそ、教育の目的
 あまり長く書いても仕方がないので、ただ二つを例として書き上げてみた。二つに共通するのは、あらゆる議論の進展を妨げているのは実は広くいきわたった通説である、ということだ。教育の究極の目的は自ら考えること、他者が組み立てたうえで集団的な構造の中に内包されてしまった価値観を自分が無意識のうちに受け入れてしまったことに気づき、改めて自ら評価しなおすことである。独創性はよいものだ、男女平等は美徳だ、過度の評価社会は人間疎外だ、多様性はよいことだ、人を殺すことはいけないことだ、などなど、我々はあらゆる常識の中に暮らす。明らかに「正しい」と思えるからこそ、それが正しくない可能性を家庭的に考えることは重要になる。その結果が正しさを確信するということならばそれだけでも洞察を得られる。大抵の場合、絶対に正しいということはなく、正しそうなことが正しくなく機能する例外の深刻さに気付く助けになるだろう。
 まずくなっているものを分割し、分析し、正常でない部分を見つけ、正常に治す、という近代医学的知は我々の生活をそれこそ革命的に変えたが、「治療」という概念こそが、まさに近代の病である、などというようなことは少なくないのではないか。

 わたしはオプティミズムなど好きではない。個人的な将来に対して楽観的なヴィジョンを持つことは確かに健康的だが、大抵、わたしがよいと思うことがどれだけの妥当性を持つか、スケプティカルに石橋をたたいて確認したくなる。そうして叩いているうちに、存外もろい部分にあたって砕いてみると展望が開けた、ということは少なくない。通説は叩き割りながら吟味するものではなかろうか。

Writer: 河野一平

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