Saturday, July 30, 2016

口をつぐまなくてはいけないことについて

 世界はよくわからないことで溢れている。いや、世界のことはほとんどよくわからない。我々が物事をよくわかることはできないということだけが、学べば学ぶほどによくわかる。とにかく何もかも不確実で不完全で不可能だ。


 だけど、できないことについてはあまり考えない。できないということになっていないことも多い。わからないはずなのに、とりあえずわかるということになっている場合も多い。なぜだろうか。それはわかる気がする。要はわからないと何も始まらないからだ。とりあえずはわかった気にならなくてはならない。それでそんな気になっているうちに本当にわかっていると思い込む。


 例えば、今あなたの手はどこにあるか。そんなのは明らかだ、「わかる」。どうしてわかるのか、そんなことを聞かれても、わかるものはわかる。わかることにしないと、同にしたって何にもできやしない。だが手がどこにあるのかは、実はただ「わかる」限りではない。英語で、proprioceptionという感覚がある。ただものが見えて、平衡感覚がつかめただけでは、実は手がどこにあるのか「わかる」ためには十分ではない。このproprioceptionという感覚が卒中などの要因によって失われれば、もう手がどこにあるのか「わからない」。そういうのがどういう感覚なのか、proprioceptionを持っている人間にはもちろんわからない。わたしが言いたいのは、要は自分の手が「わかる」という感覚すらも、その程度にしかわからないということだ。それが失われる可能性など、考えられもしない。


 あるいは盲視というのがある。卒中などで右側が見えない患者が、明らかに本人は「見えない」と思っているのに、動きを正しく「見極め」たり、右側のポストに手紙を入れられる。一貫して本人は「見えていない」と言うし、おそらく見えていないのだろう。これは脳に「見たもの」が通る回路が二つあるせいである。二つの回路で別々に処理される情報は通常統合されて分けられていることすら気が付かない。わたしが「見える」と自明としている現象もまた、その程度の「わかる」基盤しか持たない。


 あるいは自分の動かない左手を頑なに動くのだと主張する右側頭葉卒中患者。この否認は実に徹底的で、本人が自分の左半身の麻痺を一切知覚していないわけではなかろうが、(耳から冷水を注入すると一時的に否認が解かれ、「わたしの左手は動かない、動くとうそをついていた」と患者は言う。三十分ほどその状態は続くらしいが、再び否認の状態に陥ると、「腕は動くと答えました」と記憶すらも否認してしまう)脳科学者のラマチャンドランによれば、右脳の検閲を受けない左脳が、非合理なまでの合理化を行ってしまうという。だからラマチャンドランは「わたしですらも否認に陥れば、自分が否認を行っていると自覚することなく、否認について講義してしまうかもしれません!」とまで言っている。わたしたちの意識とは、まあその程度のものである。


 人間の意識がだめなら、とすぐ「客観」に走る人がいるかもしれない。いわゆる「客観」を処理するのは結局主観だが、仮に究極的に主観のない客観がいるとして、それが世界を知ろうとする。世界を知るんだから、何かしらその側面について測定をしなくてはいけない。人間もそういう意味では測定器である。光の波長を目で測定し、空中に漂う分子を鼻で嗅ぎ分け、空気の振動を聞き分ける。五感なしには世界はわからない。測定なしには世界の姿は見えない。測定さえすれば、何かの物質のある時の位置と方向と速度がわかれば、世界の動きは物理法則にしたがっているのだから、世界はわかるのではないか。ナポレオンに仕えた博識のラプラス侯爵はそう考えた。こうして生まれた全知の仮定的存在がラプラスの悪魔。


 ラプラスの悪魔はもういないことがわかっている。殺害者はハインゼンベルク。三十一歳の若者にノーベル賞をもたらした不確定性原理だ。単純に言えばハインゼンベルクはわからないと言った。位置を見極めようとすれば速度がわからない。速度を見極めようとすれば位置がわからない。見るという行為には光がどうしても必要である。だが光を当てればその圧力で(光圧という)見ようとする対象はゆがめられる。見ることが見られるものを変えてしまう。だからどうしても厳密な状態を観測するためには見てはならない。だけども、見なくては「観」測などできない。だから結局世界など究極にはわからない。


 あるいは政府が特定の経済行為を国家の経済の指標と定める。その途端にどこの企業も数字のために表面的にその経済行為を繰り返し、指標は不正確になる。対象が目的となれば測定は必ず正確さを犠牲にする。だけれど測られていることがわかればだれでもそれに向かわずにはいられない。ボランティアも大学に入れるかどうかに関わると言われれば、だれでもやりたくなってしまう。もともとボランティア行為から推し量れるいかなる特質もそこにはついてこないのだろうということになる、そういうことを言ったのが経済学者のグットハートだった。


 それから人類の誇るクルト・ゲーデルが結局人生をかけてやった仕事だって、結局は「よくわからない」という結論だった。結論だけ理解するのにゲーデルの天才はいらない。要は自分が矛盾していないことを自分で証明できないのだということだ。悲しいかな、ゲーデルはこともあろうにそれを数学の言語で証明した。科学はどんなに合理的でも結局経験則である。しかし数学はもっと厳密な「真」の証明とそこからの演繹である。だから昔々のピタゴラス教団の人たちが思ったように、「神様でも反対できない」。なのに結論は「だから本当のところはよくわからないし、わかれないってこと」。


 どこもかしこもわからない、わからないということだけはよくわかる。だけれどもここで少し楽観的になれば、ソクラテスはその自覚にこそ学問の始まりはあるのだと考えた。「無知の知」と呼ぶ。わからないってわかっている分だけ、わからないのすらもわからない人間よりはましだというのが彼の持論だ。うーん、これもますますわからない。


 だけど、確かにわからないのにすぐにわかるという人間はあちこちにいる。高校のころ、勉強を教えてくれた先生方だって、「やればできる」だとか、「要は気持ちだ」だとか、よくわからないことを言っていた。人生の勝ち馬はこうだ、と説く本はどこの国のどの書店にもうず高く積まれているけれど、あれもどうしてそうきっぱり言えるのか、よくわからない。こういうやり方じゃないとダメだ、と半ば脅すように説教する人間は、大学に進もうとしても、留学に行こうとしても、仕事を始めようとしても、およそ新しいことを始めようとする人間を啓蒙しようとどこにでもいるが、その人たちが決めつけることもやっぱりどうしてそうなるかよくわからないことなのだ。大抵、「そうもなるしそうならないこともある」ということが、意識にとって都合がいいから「きっとそうなる」と強められて認識されているように思う。まだそれなりにわかることだとしても、「こうだ!」と恥ずかしげもなく押し付けられるとわからなくなる。




 ウィトゲンシュタインはかく語りき。「語りえぬものに対しては口をつぐまなくてはならない。」だから反省しろと言いたいのだけれど、何が「語りえぬ」のかそれもわからない!だけどもわかるのはわかるから「こうだ!」という人には、もうどうしたらいいのかわからなくなる。






Writer:河野一平

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