Thursday, November 10, 2016

通論の怪しさ 自発幻想と構造による疎外

論の安全地帯
 ここに提示しようとする仮説は決して新しいものではなく、結果的におそらくデヴィット・ヒュームの論の繰り返しになるにすぎないように思う。しかしこの論の考察は個人的な次元から端を発するものである。
 我々が「論理的」に論を展開するとき、論理の必然性以上に、その論となる感情的必要性のほうが支配的な影響力を持っている。我々の洞察一切はあくまで個人的必要のもとに生まれ、個人的必要性に合わせて深化されていくものであり、したがって非常に根本的な部分でまず恣意的であり、あらゆる細部は先天的な必要論理に付加されるものである。論を展開することはしたがって大抵において自己の世界像の肯定行為であり、多くの議論は論理性の名の下で、あくまで自分の世界像の主張及び共有の場に徹底される。そこには論理以前に人間関係があり、そのもとに調和的な論が修正されるものである。論理は多くの場合において絶対であるというより、場面と状況に大いに依存する動的な存在なのではないか。
 近代論理学の試みは、しかし、真逆のベクトルを持っていたといえる。それは各個人を超えて、広く人間という次元で常に時間及び状況に独立に真である法則の発見に向いていた。その姿勢の原型は古代ギリシャから受け継がれてきた。アリストテレスの詭弁を取り除こうとする三段論法の流れを西洋の近代知は脈々と受け継いできたのである。
 これは確かにより厳密な論である科学の誕生に貢献したが、科学の厳密性は最低限の一般化のみしか行わない日進月歩のプロセス、またそれを解釈するのがあくまで人間という限界を超えられてもいないことから、何も絶対的な真理追及の理想手段ではないのである。しかしこれは詭弁よりはよほどにましなものではある。
 しかしこのましさは進歩であったと同時に新たな幻想を生み出した。我々は客観的論理の名のもとに、論理から感情を排除する限界を忘れがちになってしまったように思う。
 我々の思考においては常に二つの力がせめぎあっている。そうある、と知覚する力とそうあってほしいと願う力だ。この二つは厳密には二つと分画しうるものではなく、互いに絡み合い、フィードバックし合い、我々の世界観を構築している。わたしがまずここで断っておきたいのは、前者の「そうある」という知覚が決してありのままをそのまま受け取るという知覚ではないということだ。それは我々が予知しえないほどの生理的な操作を含んだものなのである。
 大切なことは、我々が結局いかに恣意的に論を展開する存在であるというかを認識し、常に自己反省をすることである。教養のある知識人のしるしはなにも圧倒的な知識量ではない。知識人となった証はすぐには答えを出さずに考え、自分の考えたことを少し距離をもって吟味しなおすことだ。もちろん、以上のような論そのものが、結果的に著者たるわたしばかりを安全地帯においてしまうことは承知である。承知の上で、それは仕方がないと言っている。(これもわたしを安全地帯に置くセリフだ。)少なくともどんな議論をするうえでも、そのような地の限界を常に認識すべきだと言っているのである。

メディアの興亡
 大統領選が昨日終わり、まさかのトランプの勝利に、わたしも衝撃を受けた。何より互いに非常に攻撃的な二派にアメリカが分かれつつあるという感覚を受けた。結果は非常に僅差、獲得票数ではヒラリーが勝利を収めたにもかかわらず、選挙区でトランプが競り切った。
 翌日から、アメリカもついにここまで堕ちた、とがっかりするわたしに、数人の友人が、今やクリシェとなっているメディア論を展開した。メディアは操作されている、それに泳がされているだけなのだ、と。そういう手の批判はまず知覚の仕方そのものが問題になってくるのでなかなか聞き入れがたいものがある。わたしはすんなり彼らのメディア論を受け入れられなかった。あるいは、「こうなのだ、知らなかったか」という構図が単純に腹立たしかったから理由が欲しかっただけかもしれない。
 ただ、そもそも「メディアはだめだ」とする情報をクリシェとして定着するほどに集団的に我々が共有するのなら、それはいったい、どこから媒介されてきたのか。広く情報を媒介するものをメディアと呼ぶのであれば、メディア陰謀説すらもメディアから来たのではないのか、と思えてくる。我々にメディアの退廃を感じさせるものは物質でなく、それこそメディアが媒介する情報である、という点に異論を持つ人間はあるまい。メディアが信じられない、とメディアから聞くことは実に自己言及的である。信じたらいいのかよくないのかわからない。
 ここでわたしはそもそもメディアを広く情報を媒介するもの全般と勝手に定義した。人々が「メディア」と呼ぶものはもっと狭義に、テレビ、新聞、雑誌等のマスコミを指していることが多い。これらの情報源を「不正確」と結論付ける決定証拠は何も数値の解読法の具体的な誤謬であるとか、論理構築のおかしさであるとか、いわゆる論理性に裏付けられるものというわけではない。我々をメディア不信にするのはそのような社会的風潮であり、その風潮から生まれる別のメディアによる警告である。その別の情報媒体は人づてであるかもしれないし、あるいはそれこそマスコミからかもしれない。ここで重要なのは、人々は大衆として、メディアの正確性をその他別のメディアを通さずに確認する能力を持ち合わせないという事実、及び、そうでないにもかかわらず、そのような現実感を裏付ける構造が我々の周りに存在するということである。
 情報の氾濫する今日の世界で、加速的に重要になる情報の有用性、信ぴょう性。しかしその選抜基準でさえも、そもそも何らかの情報の重みづけをなしたのちでなければなすことはできない。情報の、ひいては知覚の不確定性原理である。見ないことにはわからないが、見るという行為自体が決してありのままをプロジェクトするものではないので、見ても結局わかるかどうかは恣意的判断になるのだということだ。
 単純に「メディアのせいだ」と言うのは簡単である。しかしわたしはその答えに満足することはできない。メディアを動かしている力は何なのか。財閥や各権力組織か。しかしそれらを動かすもっと大きな力を、大衆は持ってはいまいか。例えば、視聴率やクリック数やスクープは一部の権力組織が「見せたい」と思っている現実というよりは、大衆が「見たい」と思っているもののプロジェクションである。では大衆が「見たい」と思っているものはいかなる力の影響下にあるか。それは歴史的な文脈における社会構造や文化、言葉、また原始的な生物的欲求だろう。ならば我々が考察すべきなのはメディアの罪ではなく、社会構造であり、文化、言葉、生物的欲求のほうではないのか。メディアのせいというのはあまりにモデルを単純化して思考停止を招くのではないか。

高等教育機会均等の落とし穴
 わたしが現在住んでいる米カリフォルニア州はアメリカでも最初に高等教育に大衆の参入を促した。少し前まで、カリフォルニア州民であれば全く学費を払うことなく、それでいて十分に高水準な州立大学に通うことができたし、カリフォルニアの財政が悪化した今でも、多くの生徒はファイナンシャルエイドを受けて州立大学へ通う。
 自由市場主義が過度に加速したアメリカでは、ほとんどどの分野においても営利企業による利潤優先の運営方針によって人間疎外が起きていることが問題になっている。労働環境や条件がいち早く近代化した国であるにもかかわらず、皮肉なことにも制度的には結局アメリカはヨーロッパに遠く及ばぬ後進国である。医療保険は改善をほとんど見せず、福祉制度はないに等しい。そして高等教育で教育の在り方以上にどうしても議論になるのが学費の尋常でない高騰である。アメリカの名門大学は選抜においてのみでなく、諸費用に面においてもうなぎ上りの「ランナウェイ現象」を見せている。具体的な数字を言えば、七十年代に比べて競争率は四、五倍以上に、学費は実に十倍以上の増加を見せた。自分で働いて学費を払うことができた時代はとうに終わり、今は親から援助を受けて間に合う生徒すら珍しくなってしまった。結果、巨額に膨れ上がる上に自己破産しても面際されず、子供にまで「遺伝」してしまう「死んでも逃れられない」学資ローンに頼る生徒が激増、その総額は国民全体でついに十兆ドルを超えている。
 そこで現在、この社会問題に対して当然、公教育のあるべき姿が議論される。主な論点は経済的出自に関わらず、平等に大学に入れるようにすべきだとする機会均等主義者、加熱する就職競争の市場において有利さを獲得するために職業訓練校に変わりつつある高等教育の場に対し、もっと大切なことがあるのではないのかとする教養教育主義者、はたまたきっぱり高等教育は社会準備の場なのだからと職業準備教育の徹底を求める実益主義者などだ。現在、アメリカの論壇には各主義者が乱立し、またこれらは互いに微妙に主張が異なるものであるから、高等教育に興味を持つものとしていささか釈然としないものがあった。
 例えば機会均等主義者は現在の問題はともかく誰もが十分に良質な大学に入学する平等なチャンスがないことを憂う。彼らの理想は誰もが各自のバックグラウンドに気兼ねすることなく大学に入学することを決意できる社会である。彼らは大学の目的を大衆教育だと思っているものだから、大衆教育がではどのようにあるべきなのかという問いに対しては教養主義と実益主義の二派にわかれる。ともかく高等教育は大衆のもの、特定集団を締め出すのはよくないという立場だ。
 この立場にはあらゆる社会的な場面において万人に広く機会を開け放つ現代社会の傾向にまさにドンピシャで「正しい」倫理として受け入れられがちであるが、大衆教育に伴ういくつかの問題をはらんでいる。まず、それでは何を教育すべきか、という問題にはほとんど具体的な統一性を持つことができないということだ。大衆のニーズに応えることはほとんど必然的に求められてしまうが、大衆と文化人、教養人がどこか相いれない部分を感じるのは何もわたしだけではないだろう。もちろん理想を言えば、そもそも公教育の究極な目的は大衆を文化人、教養人に仕立てることであった。しかし大衆教育は一括に画一的な教育を行う機能的な必要性があるものだから、同時に教養人的な独立した思考を抑えてしまうという側面がある。多人数のクラスでカリキュラムに縛られれば知識の予期せぬリンクも発達させる前に無視して進んでしまうことが多い。日本に比べてアメリカはまだ「各自権威に惑わされず自ら考える能力を」といわゆるクリティカルシンキングを促進する土壌はしっかりしているが、そういう土壌一切が実は思考をある方向に固めてしまう構造的原因になっていることにはやはり十分に意識が届いているわけではない。真の教養人はこれらすべての外側に出て考察をする能力が求められる。先人から分析の道具を得ながら、「今、ここ」にそれらがどのような妥当性を持つか考察をする必要がある。それに対する意識的な試みは確かにアメリカの教育において比較的顕著にみられる。しかし大抵の設問は壮大な問いを提起しながら、大抵の学生の回答は世に通じる概念構造をほぼそのまま内包したものであり、そこまで問題に有意義な深化を与えているわけでない。しかもこれらの設問に対する回答がただ考察を深めるという以上に、各生徒の将来に直接関わってしまうという大衆教育独特の利害が伴ってしまうと、考察をするより無難に一般論を述べてしまおうとする圧力もおのずとかかってしまうものである。知識人、教養人は各個人を超えて社会の構造を考察し、今現在の問題を指摘し、その行く先を憂う存在でなくてはならないが、大衆教育はどうしても各個人の利益を考えずにはいられない側面がある。「わたしの将来」など一度棚上げして、ある対象に対して集中することは教養人としてどうしても不可欠なことであるが、この自分を超えて「宇宙を見る余裕」とでもいうべきものが大衆的高等教育には究極的に欠けているように思えるのである。「自分のことができないと、もっと大きな構造のことなど見えない」という反論は成り立たない。さすがに食う寝るところに困るほどなのであれば当然学問などやっている余裕はないだろうが、高等教育のそもそもの目的は「自分のことを分析するために自分から目をそらしてみること」なのである。大学の正式な科目に個人の個人性ばかりを追求するものなど一つもないことからそれがうかがえるだろう。
 もちろん、その余裕が若者の心をすぐさまつかまなくても、生涯生きるどこかのステップにおいて高等教育が授ける思考を用いることができるのであれば高等教育も全く無駄ではない。ただ、ウォールストリートが今日ほどの繁栄を見せ、アイヴィーリーグを卒業する学生の多くの割合がファイナンスに進み、フォーブスなどのマスコミが大学を卒業後の収入の多寡で一義的に評価する雰囲気の定着している現在のアメリカで、高等教育の広まりと同程度にその余裕が広まっているようには思えないのである。ただ単純に公教育を肯定し、大衆になるべく多く教育を施せばよいという論点は公教育が今日ほど広まる前でならまだいくばくかの妥当性を持つことができただろうが、わたしはいい加減に公教育そのものの問題点を検討する次のステップに進んでもいいころではないかと思うのだ。

通論から抜け出す能力こそ、教育の目的
 あまり長く書いても仕方がないので、ただ二つを例として書き上げてみた。二つに共通するのは、あらゆる議論の進展を妨げているのは実は広くいきわたった通説である、ということだ。教育の究極の目的は自ら考えること、他者が組み立てたうえで集団的な構造の中に内包されてしまった価値観を自分が無意識のうちに受け入れてしまったことに気づき、改めて自ら評価しなおすことである。独創性はよいものだ、男女平等は美徳だ、過度の評価社会は人間疎外だ、多様性はよいことだ、人を殺すことはいけないことだ、などなど、我々はあらゆる常識の中に暮らす。明らかに「正しい」と思えるからこそ、それが正しくない可能性を家庭的に考えることは重要になる。その結果が正しさを確信するということならばそれだけでも洞察を得られる。大抵の場合、絶対に正しいということはなく、正しそうなことが正しくなく機能する例外の深刻さに気付く助けになるだろう。
 まずくなっているものを分割し、分析し、正常でない部分を見つけ、正常に治す、という近代医学的知は我々の生活をそれこそ革命的に変えたが、「治療」という概念こそが、まさに近代の病である、などというようなことは少なくないのではないか。

 わたしはオプティミズムなど好きではない。個人的な将来に対して楽観的なヴィジョンを持つことは確かに健康的だが、大抵、わたしがよいと思うことがどれだけの妥当性を持つか、スケプティカルに石橋をたたいて確認したくなる。そうして叩いているうちに、存外もろい部分にあたって砕いてみると展望が開けた、ということは少なくない。通説は叩き割りながら吟味するものではなかろうか。

Writer: 河野一平

Tuesday, September 20, 2016



100人中4人。



この数字何かわかりますかね?









この数字、ある留学斡旋業者に説明を受けに行った数に対して実際に留学の夢を叶えた人の数です。


これは実際に自分の留学カウンセラーから聞いた話です。





この数字率直にどー思いますか?

こんな少ないのかって思いませんか?


少なくても自分はそう思いました。







ではなぜ、こんなに少ないのでしょうか?





一番の理由は金銭的でしょうね間違いなく。こんなにお金かかるのか、じゃちょっと無理かなって感じで。



でも、他にも本当に必要な情報が足りなくて将来の不透明さに躊躇してる可能性もなくはないと思いませんか?

実際自分が留学する時その点は感じました。

こんなに学校いっぱいあって、どこ選べばいいんだろって感じで。




確かに今の時代インターネットがあれば大抵の情報は探すことができます。

でも、その中にどれほど有益な情報を発信してるサイトがあるかということですよね


生徒数が何人

創立何年



とかそんないらない情報ばっかだったり、いつの情報かわからないようなものを提供するサイトもあります。





なぜ、有益なサイトがないんでしょうか?


それは留学斡旋業者だけが情報発信者となってるからですよね。



こんだけアメリカに留学している生徒が

いるなら、実際にその学校に通っている人に学校紹介をしてもらえばどうでしょうか?

実際に通ってるからこその情報、アップデートされた情報が手に入りますよね。



そういった理由で私は、



留学情報サイト"Japanese United"


を作りました。まだアップしきれてませんが、現在40校ほどのデータを集めました。

とりあえずの所100校が目標です。




アメリカ全土に広がった生徒さんのお力を借りることで莫大な数の大学のデータが集まると思っています。

アメリカで良い経験をさせてもらっていて自分は幸せだなと感じているからこそ、他の人にも経験してほしいなと思っています。




そのために自分ができることはしていきたいなと思いますし、未来のアメリカ留学生のためにアメリカ留学されてる生徒さんが自らのポテンシャルを発揮できる場所をつくっていけたらなと思ってます。

Writer:まさと

Friday, September 9, 2016

たった数分間のできごとがお客様をハッピーにできる!



私は、コールドストーンというアイスクリーム屋さんでアルバイトをしています。

ちょっと変わっていて、私たちは歌と一緒にアイスクリームを提供しています。







-9度の石の上で、アイスとmix-inと呼ばれるお菓子やフルーツを混ぜていきます。

これだけでも楽しいのに、さらに歌のプレゼントも♫

100曲くらいある歌の中から、クルーがそのアイスやお客さんにあった曲をプレゼント😊

ほとんどの曲のメロディが童謡で、歌詞がアイスクリームの歌詞になっています。

例えば、

welcome to goldstone creamary glad to meet you

thank you for your visiting present for happy and dream

などなど、アイスクリームやハッピー、夢など、キラキラした歌詞をお客様におとどけしています☀︎



もちろん、メインは歌でもなく私たちクルーでもなくアイスクリーム!

our star is icecream.

を合言葉にお仕事をします。

ただ、コールドストーンの魅力を増やすのは、私たちクルーのお仕事♫

our brand is crew.


クルーの行動一つ一つがハッピーを生み出していきます。



ハッピーなできごとを二つ、紹介していきたいと思います。



平日の20:00頃、いつもならかなりスローな時間が続きますが、同い年くらいの男性のお客様から電話がかかってきました。

「これから3人お店に行くのですが、幼馴染の誕生日なんです。びっくりさせたいのでサプライズお願いできませんか?」

お客様の服装、お誕生日のお客様のお名前、お歌の歌詞をお伝えして、サプライズを仕掛けるお二人との作戦会議をしました。

30分後にいらっしゃるとのことだったので、オリジナルソングをつくったり、振付を考えたり、照明の練習をしたり、お店全体で大切な3名のお客様をお迎えする準備をしました!

20:30、お客様がいらして通常の接客がスタート!お客様と相談をしてアイスクリームを決めていきます。

いよいよストーンの上でクリマール(アイスを混ぜること)が始まると、サプライズが始まります!

お電話をくださったお二人がノリノリで一緒に歌ってくださり、何も知らないお誕生日のお客様はびっくり顔!

その後、事情がわかったようで、みるみるうちに目から涙があふれていきました。

「いままでで最高の誕生日になった!ありがとうございます!」

と最高にhappyなお言葉をいただきました!

その言葉になぜかクルーの私たちもうるっと来てしまったり笑

お客様の幸せに立ち会えた、幸せな瞬間でした!





二つ目のお話は、外国人のお客様が来てくださったときのこと。

「コールドストーンはアメリカにもあるわ!」

と教えてくださいました。

「日本のコールドストーンはお歌も歌います!」とお伝えすると、ぜひ歌って!とのお返事😊

私が一番好きな歌をプレゼントしました。

そこからは、意気投合して、日本には旅行で一人で来ていることや、どこに行ったのか、明日にはもう帰ってしまうことなど、お話をしました。

お客様がアイスを召し上がって、おかえりになるとき、「have a nice time in japan!」と声をかけると、「日本での一番の思い出になった」と最後に握手をしながら私に紙切れを渡してくださいました。

これこそが、アイスだけを楽しんでもらう他のアイスクリーム屋さんとは違い、歌や雰囲気、クルーとの会話を楽しんでいただけるコールドストーンの魅力だと思います!



do the right thing.

be the best be #1.

bring out the best, in our people.

profit by making people happy.

win as a team!



これらが、私たちの大切にするコアバリューです。

アイスクリーム屋さんなのに、アイスのことは書かれていません。

私たちは、お客様にhappyになってほしい!そして大切な時間を共有したい!という思いでお仕事をしています。

人をhappyにするって、難しいようで実はコアバリューを守れば簡単にできることなんです。

少しの思いやふるまいが、人をhappyにできる!人生で一番幸せな時間や思い出に寄り添うこともできる!

こんな大切なことを感じながら、お仕事をしています☀︎




Writer:もも



Monday, August 22, 2016

意見は言わない

いま地球上には日本が承認しているだけでも196の国がある。つまりはその数だけ、いや、それ以上に多くの文化があるということだ。近年英語や中国語、正式には北京語などの世界共通言語を学ぶ傾向が強く、母国以外の異国の文化に興味を持つ人は少なくない。しかし、自身が異国文化の少しだけ生々しい事実を見たとたん批判を始めてしまう。もちろん全人類などと言うつもりはないが、自身が慣れ親しんだ文化や意見を押し付ける人を私は多く見てきた。理解と賛否、そして主張は完全に別物のはずなのに、いつの間にか理解しているだけのつもりが主張を繰り返している。


自分は周囲の友人や知り合いに比べても色々と貴重な体験・経験をしているように思う。幼いころから2つの文化が傍にあり、どちらかを選び取ることなく両方とも自分の一部にしてきた。日本と中国、どう考えても全く違う文化を持つこの2つの国が私の母国だ。自分が知る限り日本人は穏やかで親切、核家族が多く実家とそれほど関わりを持たない。そして自分の意見を強く押し付けない、悪い言い方をすれば少しばかり冷たい。範囲が広すぎるので上海周辺に在住している中国人に限定するが、彼らからは人としての熱気を感じざるを得ないのだ。日本人よりも遥かに人と人の繋がりが強固で、顔を突き合わせて会話するのを好み家族や友人と深くつながる分、お互いを支えあい助け合って生きているという大きいメリットがあるが、当然もめ事に巻き込まれやすいデメッリトもある。あくまで私自身の意見だが、この2つの国では自分以外の他人に対する考え方が根本的に違うと思う。


「自分がアメを母に一袋プレゼントしたところ、母は親戚の小さい子供や友人に大半をあげてしまった。」これはよくあることで気分を害す部分なんて全くないが、少しだけスケールを大きくすると話は変わってくる。「アメ」を「お金」にするとわかる。懸命に働いて仕送りをしているのになぜ自分のために使わないのか、と怒りを感じる人の話を聞くことは多く、自身の働いている国の文化と仕送りをする相手の住む国の間に文化の違いがあるなら尚更だろう。


そんな人たち話するたびに「理解」と「主張」が別物だと思い知らされる。笑顔を見るために「アメ」をプレゼントし大半をあげてしまう性質を「理解」していたはずが、いつの間にか本来の目的を忘れ喧嘩をしてまで自身が考える正しい「アメ」の用途を押し付け、「主張」してしまう。理解した時に賛同、または反対する感情が生まれる事は自然なプロセスだが、視点を変えさえすれば少なくとも怒りは生まれてこないのではないか、と思う。用途に賛同できなくとも笑顔が見られたら目的は果たされたも同然で、冷たい言い方に感じるかもしれないが、その後については関わらないほうが良いこともある。


これは私が見たただの一例であり、この世界には無数の考え方がある。だが、自分に合う新しい考え方を発見するまで私はもうしばらく、「理解」しながら生きていく事になるだろう。


Writer :Junki  Yoh

Saturday, July 30, 2016

口をつぐまなくてはいけないことについて

 世界はよくわからないことで溢れている。いや、世界のことはほとんどよくわからない。我々が物事をよくわかることはできないということだけが、学べば学ぶほどによくわかる。とにかく何もかも不確実で不完全で不可能だ。


 だけど、できないことについてはあまり考えない。できないということになっていないことも多い。わからないはずなのに、とりあえずわかるということになっている場合も多い。なぜだろうか。それはわかる気がする。要はわからないと何も始まらないからだ。とりあえずはわかった気にならなくてはならない。それでそんな気になっているうちに本当にわかっていると思い込む。


 例えば、今あなたの手はどこにあるか。そんなのは明らかだ、「わかる」。どうしてわかるのか、そんなことを聞かれても、わかるものはわかる。わかることにしないと、同にしたって何にもできやしない。だが手がどこにあるのかは、実はただ「わかる」限りではない。英語で、proprioceptionという感覚がある。ただものが見えて、平衡感覚がつかめただけでは、実は手がどこにあるのか「わかる」ためには十分ではない。このproprioceptionという感覚が卒中などの要因によって失われれば、もう手がどこにあるのか「わからない」。そういうのがどういう感覚なのか、proprioceptionを持っている人間にはもちろんわからない。わたしが言いたいのは、要は自分の手が「わかる」という感覚すらも、その程度にしかわからないということだ。それが失われる可能性など、考えられもしない。


 あるいは盲視というのがある。卒中などで右側が見えない患者が、明らかに本人は「見えない」と思っているのに、動きを正しく「見極め」たり、右側のポストに手紙を入れられる。一貫して本人は「見えていない」と言うし、おそらく見えていないのだろう。これは脳に「見たもの」が通る回路が二つあるせいである。二つの回路で別々に処理される情報は通常統合されて分けられていることすら気が付かない。わたしが「見える」と自明としている現象もまた、その程度の「わかる」基盤しか持たない。


 あるいは自分の動かない左手を頑なに動くのだと主張する右側頭葉卒中患者。この否認は実に徹底的で、本人が自分の左半身の麻痺を一切知覚していないわけではなかろうが、(耳から冷水を注入すると一時的に否認が解かれ、「わたしの左手は動かない、動くとうそをついていた」と患者は言う。三十分ほどその状態は続くらしいが、再び否認の状態に陥ると、「腕は動くと答えました」と記憶すらも否認してしまう)脳科学者のラマチャンドランによれば、右脳の検閲を受けない左脳が、非合理なまでの合理化を行ってしまうという。だからラマチャンドランは「わたしですらも否認に陥れば、自分が否認を行っていると自覚することなく、否認について講義してしまうかもしれません!」とまで言っている。わたしたちの意識とは、まあその程度のものである。


 人間の意識がだめなら、とすぐ「客観」に走る人がいるかもしれない。いわゆる「客観」を処理するのは結局主観だが、仮に究極的に主観のない客観がいるとして、それが世界を知ろうとする。世界を知るんだから、何かしらその側面について測定をしなくてはいけない。人間もそういう意味では測定器である。光の波長を目で測定し、空中に漂う分子を鼻で嗅ぎ分け、空気の振動を聞き分ける。五感なしには世界はわからない。測定なしには世界の姿は見えない。測定さえすれば、何かの物質のある時の位置と方向と速度がわかれば、世界の動きは物理法則にしたがっているのだから、世界はわかるのではないか。ナポレオンに仕えた博識のラプラス侯爵はそう考えた。こうして生まれた全知の仮定的存在がラプラスの悪魔。


 ラプラスの悪魔はもういないことがわかっている。殺害者はハインゼンベルク。三十一歳の若者にノーベル賞をもたらした不確定性原理だ。単純に言えばハインゼンベルクはわからないと言った。位置を見極めようとすれば速度がわからない。速度を見極めようとすれば位置がわからない。見るという行為には光がどうしても必要である。だが光を当てればその圧力で(光圧という)見ようとする対象はゆがめられる。見ることが見られるものを変えてしまう。だからどうしても厳密な状態を観測するためには見てはならない。だけども、見なくては「観」測などできない。だから結局世界など究極にはわからない。


 あるいは政府が特定の経済行為を国家の経済の指標と定める。その途端にどこの企業も数字のために表面的にその経済行為を繰り返し、指標は不正確になる。対象が目的となれば測定は必ず正確さを犠牲にする。だけれど測られていることがわかればだれでもそれに向かわずにはいられない。ボランティアも大学に入れるかどうかに関わると言われれば、だれでもやりたくなってしまう。もともとボランティア行為から推し量れるいかなる特質もそこにはついてこないのだろうということになる、そういうことを言ったのが経済学者のグットハートだった。


 それから人類の誇るクルト・ゲーデルが結局人生をかけてやった仕事だって、結局は「よくわからない」という結論だった。結論だけ理解するのにゲーデルの天才はいらない。要は自分が矛盾していないことを自分で証明できないのだということだ。悲しいかな、ゲーデルはこともあろうにそれを数学の言語で証明した。科学はどんなに合理的でも結局経験則である。しかし数学はもっと厳密な「真」の証明とそこからの演繹である。だから昔々のピタゴラス教団の人たちが思ったように、「神様でも反対できない」。なのに結論は「だから本当のところはよくわからないし、わかれないってこと」。


 どこもかしこもわからない、わからないということだけはよくわかる。だけれどもここで少し楽観的になれば、ソクラテスはその自覚にこそ学問の始まりはあるのだと考えた。「無知の知」と呼ぶ。わからないってわかっている分だけ、わからないのすらもわからない人間よりはましだというのが彼の持論だ。うーん、これもますますわからない。


 だけど、確かにわからないのにすぐにわかるという人間はあちこちにいる。高校のころ、勉強を教えてくれた先生方だって、「やればできる」だとか、「要は気持ちだ」だとか、よくわからないことを言っていた。人生の勝ち馬はこうだ、と説く本はどこの国のどの書店にもうず高く積まれているけれど、あれもどうしてそうきっぱり言えるのか、よくわからない。こういうやり方じゃないとダメだ、と半ば脅すように説教する人間は、大学に進もうとしても、留学に行こうとしても、仕事を始めようとしても、およそ新しいことを始めようとする人間を啓蒙しようとどこにでもいるが、その人たちが決めつけることもやっぱりどうしてそうなるかよくわからないことなのだ。大抵、「そうもなるしそうならないこともある」ということが、意識にとって都合がいいから「きっとそうなる」と強められて認識されているように思う。まだそれなりにわかることだとしても、「こうだ!」と恥ずかしげもなく押し付けられるとわからなくなる。




 ウィトゲンシュタインはかく語りき。「語りえぬものに対しては口をつぐまなくてはならない。」だから反省しろと言いたいのだけれど、何が「語りえぬ」のかそれもわからない!だけどもわかるのはわかるから「こうだ!」という人には、もうどうしたらいいのかわからなくなる。






Writer:河野一平

Tuesday, May 10, 2016

人のために生きるということ To Live for People



もし「何のために生きているのですか」と問われたら,あなたはどのように答えるだろうか。ある人は「名声のため」と言うかもしれないし,またある人は「裕福になるため」と言うかもしれない。この問いに絶対的な答えなどは存在せず,したがって十人十色の意見があるはずである。さて,私の答えは「人のために生きている」であり,同時にこれが私の人生における「こだわり」そのものでもある。これが何を意味するのか,以下で私なりの考えを読者と共有したい。

まず,私は他人のために生きたいと思っている。これは全員に共通する経験だと思われるが,往々にして人生では他人に助けられることがある。教室の床に落ちた消しゴムを友人が拾ってくれた,一人では手に負えない仕事に同僚が協力してくれた,家族が病気でお金に困っていると知人がお金を貸してくれた,……。その程度がどんなに小さくても,このような体験は誰にもあるはずである。心のどこかで見返りを求めているであろうことを,私は否定しない。しかし,むしろ他人のために生きることによって,私の存在理由を探したいという欲望のほうが大きい。私は将来的に歴史学を専攻することを志望する人間であるが,この場合も同様である。すなわち,歴史を描くことで人類が未来に生きるための道筋をつけ,これからの社会に少しでも貢献したいと思っている。

一方で,私は自分のために生きたいと思っている。他人のために自らを犠牲にして生きるということは,確かに美徳そのものであろう。しかし,恒常的にそのような生き方をすることは,取りも直さず他人にこき使われるだけの存在に成り下がる危険性を孕んでいる。「自由意志をもつ必要がある」と主張するのは大袈裟かもしれないが,いずれにせよ自分の判断に従って行動すべきであると強調しておきたい。

ここまで,私の人生観として「人のために生きる」ことの意味を概観してきたが,おそらく「全てが当たり前のことではないか」と感じた読者がいることだろう。そうであるならば,この文章における私の意図は果たされたことになる。当たり前のことを意識化することは,予想以上に難しい。その当たり前のことをあえて文字に書き起こし,読者とそれを共有することが何よりの狙いであった。逆に「生きる目的を考えたことはなかった」と感じた読者は,これを機会として自分なりに考えてみることを勧めたい。というのも,一つ一つの行動に何らかの意味を見出すことによって,私たちの人生はより深い意味を帯びるように思われるからである。


If you were asked about the purpose to live, what would you answer? Some people might say that they live to win their renown, and others to become rich. There is no absolute answer to that question, and therefore there should be a variety of opinions. My answer is, “I live for people,” which is at the same time what I’m particular about, or kodawari. Let me introduce my opinion in the following.

On the one hand, I’d like to live for others. You should fully realize that you’re often helped by others in your life, whether the extent is small or not. I cannot deny that I’m seeking a favor in return at the back of my mind, but rather I’d like to find out my raison d’être by living for others. I wish to be a historian, and the same holds good here too: I’m desirous to put a process in motion for human beings to live in the future and make a contribution to the prospective society.

On the other hand, I’d like to live for myself. Although living for others at the expense of yourself is a noble attribute itself, there is a real danger that you’ll be freely exploited by others. It might be exaggerating to insist that you must have your free will, but I’d like to emphasize that you should conduct yourself according to your judgment.

Some of the readership might feel that I’ve written only matters of course. If so, nothing gives me such great pleasure as this. It is more difficult than you expect to be aware of matters of course. My object in this writing is to venture to verbalize them and share them with you. If you haven’t considered the purpose to live, on the contrary, I recommend you to work out your own answers, for your lives will assume greater significance by finding out some meaning in each action.

Writer:齋藤 真琳 / Saito Marin















Friday, April 8, 2016

頑張ることに疲れない

私がシリコンバレー付近にきて感じたのはもちろんみんな頭が良さそうで(実際頭が良く)しかも努力を怠らずに常になにかを目指しているということだ。


もちろんそれは素晴らしいことだし私も見習わなければいけないわけで、正直すごく焦った。学校も精一杯で右も左も分からないのにどうしたらいいのだろうかという不安からもうここにずっといるのにどうして私は未だに一歩を踏み出していないんだろうかという不安になるまで私は放置していたのだが、何もやらない割にどうしようどうしようと焦っていた気がする。(そしてまあ今でも焦っている。)


とりあえず自分に甘い私はどうしてこんなに私は焦っているのか考えることにした。答えはとてもシンプルで”雰囲気に飲まれてた”。これだった。


競争率が高くて最先端の技術が学べるシリコンバレーという場所からくるプレッシャー。世界各国のある程度の経済的基盤を持った留学生が集まる、つまりはある程度お勉強、クラブ活動、生徒会(こういうのが私はダメなのだが)インターン等をマルチにこなしてしまう素晴らしい人々、と対照的にダメな自分の構図がダメだったらしい。


頑張らなければ頑張らなければ、と焦っているのに、具体的方法論を考えることはたいしてなく、焦りが焦りを呼んで訳も分からず勝手に落ち込むのだ。あーおバカ。


努力をするなとは言わない。努力することは大事なのは私も知っている。問題なのは”努力をしなければいけないと思って努力することが私にはできない”ということだ。頑張ること、天才になること、成功することを強いられるほど苦痛なことはない。


私は私が好きなことに対して努力をしたい、自分がやりたいことを成し遂げてドヤ顔をしたい。と、いうか日本と同じように塾に行って何も思わずに何も感じずにテンプレート的な成功を目指すようなことをまたアメリカでしたくはない。


、、甘いなあとは思うけれど、でもそれが自分のもやもやの源でそれを解決する方法は自分自身からモチベーションを持ってくることなんだなあと


当たり前なんだけど、そして結果的に行動は多分一緒なんだけど自分を納得させることって大事だなあと思った。


自分を納得させる為には雰囲気に飲まれている自分を論破させなければいけない。自分に対して本当はちょっと無理そうな期待をしていないか?自分が設定していると思っている目標は実はみんながやってるからって思って立てたものじゃないか?そんな疑問をちょこちょこっと投げかけると、きっと無駄なものはボロボロと勝手に崩れていくと思う。崩れたものがあまりに多すぎて吃驚するかも。そんな時はお疲れ自分笑と捨て置いて良い。そのまま頑張ったって構わないけど、疲れるし大変だと思う。

努力の理由を他人任せにしてるとガタが来る。いつでも他人の所為にできるのは快適だがそれと引き換えにどっとストレスが来る。ストレスに負けたアホでもいいけど自分の時間を自分のために、使いたい。



Writer:岡本真希