Thursday, November 10, 2016

通論の怪しさ 自発幻想と構造による疎外

論の安全地帯
 ここに提示しようとする仮説は決して新しいものではなく、結果的におそらくデヴィット・ヒュームの論の繰り返しになるにすぎないように思う。しかしこの論の考察は個人的な次元から端を発するものである。
 我々が「論理的」に論を展開するとき、論理の必然性以上に、その論となる感情的必要性のほうが支配的な影響力を持っている。我々の洞察一切はあくまで個人的必要のもとに生まれ、個人的必要性に合わせて深化されていくものであり、したがって非常に根本的な部分でまず恣意的であり、あらゆる細部は先天的な必要論理に付加されるものである。論を展開することはしたがって大抵において自己の世界像の肯定行為であり、多くの議論は論理性の名の下で、あくまで自分の世界像の主張及び共有の場に徹底される。そこには論理以前に人間関係があり、そのもとに調和的な論が修正されるものである。論理は多くの場合において絶対であるというより、場面と状況に大いに依存する動的な存在なのではないか。
 近代論理学の試みは、しかし、真逆のベクトルを持っていたといえる。それは各個人を超えて、広く人間という次元で常に時間及び状況に独立に真である法則の発見に向いていた。その姿勢の原型は古代ギリシャから受け継がれてきた。アリストテレスの詭弁を取り除こうとする三段論法の流れを西洋の近代知は脈々と受け継いできたのである。
 これは確かにより厳密な論である科学の誕生に貢献したが、科学の厳密性は最低限の一般化のみしか行わない日進月歩のプロセス、またそれを解釈するのがあくまで人間という限界を超えられてもいないことから、何も絶対的な真理追及の理想手段ではないのである。しかしこれは詭弁よりはよほどにましなものではある。
 しかしこのましさは進歩であったと同時に新たな幻想を生み出した。我々は客観的論理の名のもとに、論理から感情を排除する限界を忘れがちになってしまったように思う。
 我々の思考においては常に二つの力がせめぎあっている。そうある、と知覚する力とそうあってほしいと願う力だ。この二つは厳密には二つと分画しうるものではなく、互いに絡み合い、フィードバックし合い、我々の世界観を構築している。わたしがまずここで断っておきたいのは、前者の「そうある」という知覚が決してありのままをそのまま受け取るという知覚ではないということだ。それは我々が予知しえないほどの生理的な操作を含んだものなのである。
 大切なことは、我々が結局いかに恣意的に論を展開する存在であるというかを認識し、常に自己反省をすることである。教養のある知識人のしるしはなにも圧倒的な知識量ではない。知識人となった証はすぐには答えを出さずに考え、自分の考えたことを少し距離をもって吟味しなおすことだ。もちろん、以上のような論そのものが、結果的に著者たるわたしばかりを安全地帯においてしまうことは承知である。承知の上で、それは仕方がないと言っている。(これもわたしを安全地帯に置くセリフだ。)少なくともどんな議論をするうえでも、そのような地の限界を常に認識すべきだと言っているのである。

メディアの興亡
 大統領選が昨日終わり、まさかのトランプの勝利に、わたしも衝撃を受けた。何より互いに非常に攻撃的な二派にアメリカが分かれつつあるという感覚を受けた。結果は非常に僅差、獲得票数ではヒラリーが勝利を収めたにもかかわらず、選挙区でトランプが競り切った。
 翌日から、アメリカもついにここまで堕ちた、とがっかりするわたしに、数人の友人が、今やクリシェとなっているメディア論を展開した。メディアは操作されている、それに泳がされているだけなのだ、と。そういう手の批判はまず知覚の仕方そのものが問題になってくるのでなかなか聞き入れがたいものがある。わたしはすんなり彼らのメディア論を受け入れられなかった。あるいは、「こうなのだ、知らなかったか」という構図が単純に腹立たしかったから理由が欲しかっただけかもしれない。
 ただ、そもそも「メディアはだめだ」とする情報をクリシェとして定着するほどに集団的に我々が共有するのなら、それはいったい、どこから媒介されてきたのか。広く情報を媒介するものをメディアと呼ぶのであれば、メディア陰謀説すらもメディアから来たのではないのか、と思えてくる。我々にメディアの退廃を感じさせるものは物質でなく、それこそメディアが媒介する情報である、という点に異論を持つ人間はあるまい。メディアが信じられない、とメディアから聞くことは実に自己言及的である。信じたらいいのかよくないのかわからない。
 ここでわたしはそもそもメディアを広く情報を媒介するもの全般と勝手に定義した。人々が「メディア」と呼ぶものはもっと狭義に、テレビ、新聞、雑誌等のマスコミを指していることが多い。これらの情報源を「不正確」と結論付ける決定証拠は何も数値の解読法の具体的な誤謬であるとか、論理構築のおかしさであるとか、いわゆる論理性に裏付けられるものというわけではない。我々をメディア不信にするのはそのような社会的風潮であり、その風潮から生まれる別のメディアによる警告である。その別の情報媒体は人づてであるかもしれないし、あるいはそれこそマスコミからかもしれない。ここで重要なのは、人々は大衆として、メディアの正確性をその他別のメディアを通さずに確認する能力を持ち合わせないという事実、及び、そうでないにもかかわらず、そのような現実感を裏付ける構造が我々の周りに存在するということである。
 情報の氾濫する今日の世界で、加速的に重要になる情報の有用性、信ぴょう性。しかしその選抜基準でさえも、そもそも何らかの情報の重みづけをなしたのちでなければなすことはできない。情報の、ひいては知覚の不確定性原理である。見ないことにはわからないが、見るという行為自体が決してありのままをプロジェクトするものではないので、見ても結局わかるかどうかは恣意的判断になるのだということだ。
 単純に「メディアのせいだ」と言うのは簡単である。しかしわたしはその答えに満足することはできない。メディアを動かしている力は何なのか。財閥や各権力組織か。しかしそれらを動かすもっと大きな力を、大衆は持ってはいまいか。例えば、視聴率やクリック数やスクープは一部の権力組織が「見せたい」と思っている現実というよりは、大衆が「見たい」と思っているもののプロジェクションである。では大衆が「見たい」と思っているものはいかなる力の影響下にあるか。それは歴史的な文脈における社会構造や文化、言葉、また原始的な生物的欲求だろう。ならば我々が考察すべきなのはメディアの罪ではなく、社会構造であり、文化、言葉、生物的欲求のほうではないのか。メディアのせいというのはあまりにモデルを単純化して思考停止を招くのではないか。

高等教育機会均等の落とし穴
 わたしが現在住んでいる米カリフォルニア州はアメリカでも最初に高等教育に大衆の参入を促した。少し前まで、カリフォルニア州民であれば全く学費を払うことなく、それでいて十分に高水準な州立大学に通うことができたし、カリフォルニアの財政が悪化した今でも、多くの生徒はファイナンシャルエイドを受けて州立大学へ通う。
 自由市場主義が過度に加速したアメリカでは、ほとんどどの分野においても営利企業による利潤優先の運営方針によって人間疎外が起きていることが問題になっている。労働環境や条件がいち早く近代化した国であるにもかかわらず、皮肉なことにも制度的には結局アメリカはヨーロッパに遠く及ばぬ後進国である。医療保険は改善をほとんど見せず、福祉制度はないに等しい。そして高等教育で教育の在り方以上にどうしても議論になるのが学費の尋常でない高騰である。アメリカの名門大学は選抜においてのみでなく、諸費用に面においてもうなぎ上りの「ランナウェイ現象」を見せている。具体的な数字を言えば、七十年代に比べて競争率は四、五倍以上に、学費は実に十倍以上の増加を見せた。自分で働いて学費を払うことができた時代はとうに終わり、今は親から援助を受けて間に合う生徒すら珍しくなってしまった。結果、巨額に膨れ上がる上に自己破産しても面際されず、子供にまで「遺伝」してしまう「死んでも逃れられない」学資ローンに頼る生徒が激増、その総額は国民全体でついに十兆ドルを超えている。
 そこで現在、この社会問題に対して当然、公教育のあるべき姿が議論される。主な論点は経済的出自に関わらず、平等に大学に入れるようにすべきだとする機会均等主義者、加熱する就職競争の市場において有利さを獲得するために職業訓練校に変わりつつある高等教育の場に対し、もっと大切なことがあるのではないのかとする教養教育主義者、はたまたきっぱり高等教育は社会準備の場なのだからと職業準備教育の徹底を求める実益主義者などだ。現在、アメリカの論壇には各主義者が乱立し、またこれらは互いに微妙に主張が異なるものであるから、高等教育に興味を持つものとしていささか釈然としないものがあった。
 例えば機会均等主義者は現在の問題はともかく誰もが十分に良質な大学に入学する平等なチャンスがないことを憂う。彼らの理想は誰もが各自のバックグラウンドに気兼ねすることなく大学に入学することを決意できる社会である。彼らは大学の目的を大衆教育だと思っているものだから、大衆教育がではどのようにあるべきなのかという問いに対しては教養主義と実益主義の二派にわかれる。ともかく高等教育は大衆のもの、特定集団を締め出すのはよくないという立場だ。
 この立場にはあらゆる社会的な場面において万人に広く機会を開け放つ現代社会の傾向にまさにドンピシャで「正しい」倫理として受け入れられがちであるが、大衆教育に伴ういくつかの問題をはらんでいる。まず、それでは何を教育すべきか、という問題にはほとんど具体的な統一性を持つことができないということだ。大衆のニーズに応えることはほとんど必然的に求められてしまうが、大衆と文化人、教養人がどこか相いれない部分を感じるのは何もわたしだけではないだろう。もちろん理想を言えば、そもそも公教育の究極な目的は大衆を文化人、教養人に仕立てることであった。しかし大衆教育は一括に画一的な教育を行う機能的な必要性があるものだから、同時に教養人的な独立した思考を抑えてしまうという側面がある。多人数のクラスでカリキュラムに縛られれば知識の予期せぬリンクも発達させる前に無視して進んでしまうことが多い。日本に比べてアメリカはまだ「各自権威に惑わされず自ら考える能力を」といわゆるクリティカルシンキングを促進する土壌はしっかりしているが、そういう土壌一切が実は思考をある方向に固めてしまう構造的原因になっていることにはやはり十分に意識が届いているわけではない。真の教養人はこれらすべての外側に出て考察をする能力が求められる。先人から分析の道具を得ながら、「今、ここ」にそれらがどのような妥当性を持つか考察をする必要がある。それに対する意識的な試みは確かにアメリカの教育において比較的顕著にみられる。しかし大抵の設問は壮大な問いを提起しながら、大抵の学生の回答は世に通じる概念構造をほぼそのまま内包したものであり、そこまで問題に有意義な深化を与えているわけでない。しかもこれらの設問に対する回答がただ考察を深めるという以上に、各生徒の将来に直接関わってしまうという大衆教育独特の利害が伴ってしまうと、考察をするより無難に一般論を述べてしまおうとする圧力もおのずとかかってしまうものである。知識人、教養人は各個人を超えて社会の構造を考察し、今現在の問題を指摘し、その行く先を憂う存在でなくてはならないが、大衆教育はどうしても各個人の利益を考えずにはいられない側面がある。「わたしの将来」など一度棚上げして、ある対象に対して集中することは教養人としてどうしても不可欠なことであるが、この自分を超えて「宇宙を見る余裕」とでもいうべきものが大衆的高等教育には究極的に欠けているように思えるのである。「自分のことができないと、もっと大きな構造のことなど見えない」という反論は成り立たない。さすがに食う寝るところに困るほどなのであれば当然学問などやっている余裕はないだろうが、高等教育のそもそもの目的は「自分のことを分析するために自分から目をそらしてみること」なのである。大学の正式な科目に個人の個人性ばかりを追求するものなど一つもないことからそれがうかがえるだろう。
 もちろん、その余裕が若者の心をすぐさまつかまなくても、生涯生きるどこかのステップにおいて高等教育が授ける思考を用いることができるのであれば高等教育も全く無駄ではない。ただ、ウォールストリートが今日ほどの繁栄を見せ、アイヴィーリーグを卒業する学生の多くの割合がファイナンスに進み、フォーブスなどのマスコミが大学を卒業後の収入の多寡で一義的に評価する雰囲気の定着している現在のアメリカで、高等教育の広まりと同程度にその余裕が広まっているようには思えないのである。ただ単純に公教育を肯定し、大衆になるべく多く教育を施せばよいという論点は公教育が今日ほど広まる前でならまだいくばくかの妥当性を持つことができただろうが、わたしはいい加減に公教育そのものの問題点を検討する次のステップに進んでもいいころではないかと思うのだ。

通論から抜け出す能力こそ、教育の目的
 あまり長く書いても仕方がないので、ただ二つを例として書き上げてみた。二つに共通するのは、あらゆる議論の進展を妨げているのは実は広くいきわたった通説である、ということだ。教育の究極の目的は自ら考えること、他者が組み立てたうえで集団的な構造の中に内包されてしまった価値観を自分が無意識のうちに受け入れてしまったことに気づき、改めて自ら評価しなおすことである。独創性はよいものだ、男女平等は美徳だ、過度の評価社会は人間疎外だ、多様性はよいことだ、人を殺すことはいけないことだ、などなど、我々はあらゆる常識の中に暮らす。明らかに「正しい」と思えるからこそ、それが正しくない可能性を家庭的に考えることは重要になる。その結果が正しさを確信するということならばそれだけでも洞察を得られる。大抵の場合、絶対に正しいということはなく、正しそうなことが正しくなく機能する例外の深刻さに気付く助けになるだろう。
 まずくなっているものを分割し、分析し、正常でない部分を見つけ、正常に治す、という近代医学的知は我々の生活をそれこそ革命的に変えたが、「治療」という概念こそが、まさに近代の病である、などというようなことは少なくないのではないか。

 わたしはオプティミズムなど好きではない。個人的な将来に対して楽観的なヴィジョンを持つことは確かに健康的だが、大抵、わたしがよいと思うことがどれだけの妥当性を持つか、スケプティカルに石橋をたたいて確認したくなる。そうして叩いているうちに、存外もろい部分にあたって砕いてみると展望が開けた、ということは少なくない。通説は叩き割りながら吟味するものではなかろうか。

Writer: 河野一平

Tuesday, September 20, 2016



100人中4人。



この数字何かわかりますかね?









この数字、ある留学斡旋業者に説明を受けに行った数に対して実際に留学の夢を叶えた人の数です。


これは実際に自分の留学カウンセラーから聞いた話です。





この数字率直にどー思いますか?

こんな少ないのかって思いませんか?


少なくても自分はそう思いました。







ではなぜ、こんなに少ないのでしょうか?





一番の理由は金銭的でしょうね間違いなく。こんなにお金かかるのか、じゃちょっと無理かなって感じで。



でも、他にも本当に必要な情報が足りなくて将来の不透明さに躊躇してる可能性もなくはないと思いませんか?

実際自分が留学する時その点は感じました。

こんなに学校いっぱいあって、どこ選べばいいんだろって感じで。




確かに今の時代インターネットがあれば大抵の情報は探すことができます。

でも、その中にどれほど有益な情報を発信してるサイトがあるかということですよね


生徒数が何人

創立何年



とかそんないらない情報ばっかだったり、いつの情報かわからないようなものを提供するサイトもあります。





なぜ、有益なサイトがないんでしょうか?


それは留学斡旋業者だけが情報発信者となってるからですよね。



こんだけアメリカに留学している生徒が

いるなら、実際にその学校に通っている人に学校紹介をしてもらえばどうでしょうか?

実際に通ってるからこその情報、アップデートされた情報が手に入りますよね。



そういった理由で私は、



留学情報サイト"Japanese United"


を作りました。まだアップしきれてませんが、現在40校ほどのデータを集めました。

とりあえずの所100校が目標です。




アメリカ全土に広がった生徒さんのお力を借りることで莫大な数の大学のデータが集まると思っています。

アメリカで良い経験をさせてもらっていて自分は幸せだなと感じているからこそ、他の人にも経験してほしいなと思っています。




そのために自分ができることはしていきたいなと思いますし、未来のアメリカ留学生のためにアメリカ留学されてる生徒さんが自らのポテンシャルを発揮できる場所をつくっていけたらなと思ってます。

Writer:まさと

Friday, September 9, 2016

たった数分間のできごとがお客様をハッピーにできる!



私は、コールドストーンというアイスクリーム屋さんでアルバイトをしています。

ちょっと変わっていて、私たちは歌と一緒にアイスクリームを提供しています。







-9度の石の上で、アイスとmix-inと呼ばれるお菓子やフルーツを混ぜていきます。

これだけでも楽しいのに、さらに歌のプレゼントも♫

100曲くらいある歌の中から、クルーがそのアイスやお客さんにあった曲をプレゼント😊

ほとんどの曲のメロディが童謡で、歌詞がアイスクリームの歌詞になっています。

例えば、

welcome to goldstone creamary glad to meet you

thank you for your visiting present for happy and dream

などなど、アイスクリームやハッピー、夢など、キラキラした歌詞をお客様におとどけしています☀︎



もちろん、メインは歌でもなく私たちクルーでもなくアイスクリーム!

our star is icecream.

を合言葉にお仕事をします。

ただ、コールドストーンの魅力を増やすのは、私たちクルーのお仕事♫

our brand is crew.


クルーの行動一つ一つがハッピーを生み出していきます。



ハッピーなできごとを二つ、紹介していきたいと思います。



平日の20:00頃、いつもならかなりスローな時間が続きますが、同い年くらいの男性のお客様から電話がかかってきました。

「これから3人お店に行くのですが、幼馴染の誕生日なんです。びっくりさせたいのでサプライズお願いできませんか?」

お客様の服装、お誕生日のお客様のお名前、お歌の歌詞をお伝えして、サプライズを仕掛けるお二人との作戦会議をしました。

30分後にいらっしゃるとのことだったので、オリジナルソングをつくったり、振付を考えたり、照明の練習をしたり、お店全体で大切な3名のお客様をお迎えする準備をしました!

20:30、お客様がいらして通常の接客がスタート!お客様と相談をしてアイスクリームを決めていきます。

いよいよストーンの上でクリマール(アイスを混ぜること)が始まると、サプライズが始まります!

お電話をくださったお二人がノリノリで一緒に歌ってくださり、何も知らないお誕生日のお客様はびっくり顔!

その後、事情がわかったようで、みるみるうちに目から涙があふれていきました。

「いままでで最高の誕生日になった!ありがとうございます!」

と最高にhappyなお言葉をいただきました!

その言葉になぜかクルーの私たちもうるっと来てしまったり笑

お客様の幸せに立ち会えた、幸せな瞬間でした!





二つ目のお話は、外国人のお客様が来てくださったときのこと。

「コールドストーンはアメリカにもあるわ!」

と教えてくださいました。

「日本のコールドストーンはお歌も歌います!」とお伝えすると、ぜひ歌って!とのお返事😊

私が一番好きな歌をプレゼントしました。

そこからは、意気投合して、日本には旅行で一人で来ていることや、どこに行ったのか、明日にはもう帰ってしまうことなど、お話をしました。

お客様がアイスを召し上がって、おかえりになるとき、「have a nice time in japan!」と声をかけると、「日本での一番の思い出になった」と最後に握手をしながら私に紙切れを渡してくださいました。

これこそが、アイスだけを楽しんでもらう他のアイスクリーム屋さんとは違い、歌や雰囲気、クルーとの会話を楽しんでいただけるコールドストーンの魅力だと思います!



do the right thing.

be the best be #1.

bring out the best, in our people.

profit by making people happy.

win as a team!



これらが、私たちの大切にするコアバリューです。

アイスクリーム屋さんなのに、アイスのことは書かれていません。

私たちは、お客様にhappyになってほしい!そして大切な時間を共有したい!という思いでお仕事をしています。

人をhappyにするって、難しいようで実はコアバリューを守れば簡単にできることなんです。

少しの思いやふるまいが、人をhappyにできる!人生で一番幸せな時間や思い出に寄り添うこともできる!

こんな大切なことを感じながら、お仕事をしています☀︎




Writer:もも



Monday, August 22, 2016

意見は言わない

いま地球上には日本が承認しているだけでも196の国がある。つまりはその数だけ、いや、それ以上に多くの文化があるということだ。近年英語や中国語、正式には北京語などの世界共通言語を学ぶ傾向が強く、母国以外の異国の文化に興味を持つ人は少なくない。しかし、自身が異国文化の少しだけ生々しい事実を見たとたん批判を始めてしまう。もちろん全人類などと言うつもりはないが、自身が慣れ親しんだ文化や意見を押し付ける人を私は多く見てきた。理解と賛否、そして主張は完全に別物のはずなのに、いつの間にか理解しているだけのつもりが主張を繰り返している。


自分は周囲の友人や知り合いに比べても色々と貴重な体験・経験をしているように思う。幼いころから2つの文化が傍にあり、どちらかを選び取ることなく両方とも自分の一部にしてきた。日本と中国、どう考えても全く違う文化を持つこの2つの国が私の母国だ。自分が知る限り日本人は穏やかで親切、核家族が多く実家とそれほど関わりを持たない。そして自分の意見を強く押し付けない、悪い言い方をすれば少しばかり冷たい。範囲が広すぎるので上海周辺に在住している中国人に限定するが、彼らからは人としての熱気を感じざるを得ないのだ。日本人よりも遥かに人と人の繋がりが強固で、顔を突き合わせて会話するのを好み家族や友人と深くつながる分、お互いを支えあい助け合って生きているという大きいメリットがあるが、当然もめ事に巻き込まれやすいデメッリトもある。あくまで私自身の意見だが、この2つの国では自分以外の他人に対する考え方が根本的に違うと思う。


「自分がアメを母に一袋プレゼントしたところ、母は親戚の小さい子供や友人に大半をあげてしまった。」これはよくあることで気分を害す部分なんて全くないが、少しだけスケールを大きくすると話は変わってくる。「アメ」を「お金」にするとわかる。懸命に働いて仕送りをしているのになぜ自分のために使わないのか、と怒りを感じる人の話を聞くことは多く、自身の働いている国の文化と仕送りをする相手の住む国の間に文化の違いがあるなら尚更だろう。


そんな人たち話するたびに「理解」と「主張」が別物だと思い知らされる。笑顔を見るために「アメ」をプレゼントし大半をあげてしまう性質を「理解」していたはずが、いつの間にか本来の目的を忘れ喧嘩をしてまで自身が考える正しい「アメ」の用途を押し付け、「主張」してしまう。理解した時に賛同、または反対する感情が生まれる事は自然なプロセスだが、視点を変えさえすれば少なくとも怒りは生まれてこないのではないか、と思う。用途に賛同できなくとも笑顔が見られたら目的は果たされたも同然で、冷たい言い方に感じるかもしれないが、その後については関わらないほうが良いこともある。


これは私が見たただの一例であり、この世界には無数の考え方がある。だが、自分に合う新しい考え方を発見するまで私はもうしばらく、「理解」しながら生きていく事になるだろう。


Writer :Junki  Yoh

Saturday, July 30, 2016

口をつぐまなくてはいけないことについて

 世界はよくわからないことで溢れている。いや、世界のことはほとんどよくわからない。我々が物事をよくわかることはできないということだけが、学べば学ぶほどによくわかる。とにかく何もかも不確実で不完全で不可能だ。


 だけど、できないことについてはあまり考えない。できないということになっていないことも多い。わからないはずなのに、とりあえずわかるということになっている場合も多い。なぜだろうか。それはわかる気がする。要はわからないと何も始まらないからだ。とりあえずはわかった気にならなくてはならない。それでそんな気になっているうちに本当にわかっていると思い込む。


 例えば、今あなたの手はどこにあるか。そんなのは明らかだ、「わかる」。どうしてわかるのか、そんなことを聞かれても、わかるものはわかる。わかることにしないと、同にしたって何にもできやしない。だが手がどこにあるのかは、実はただ「わかる」限りではない。英語で、proprioceptionという感覚がある。ただものが見えて、平衡感覚がつかめただけでは、実は手がどこにあるのか「わかる」ためには十分ではない。このproprioceptionという感覚が卒中などの要因によって失われれば、もう手がどこにあるのか「わからない」。そういうのがどういう感覚なのか、proprioceptionを持っている人間にはもちろんわからない。わたしが言いたいのは、要は自分の手が「わかる」という感覚すらも、その程度にしかわからないということだ。それが失われる可能性など、考えられもしない。


 あるいは盲視というのがある。卒中などで右側が見えない患者が、明らかに本人は「見えない」と思っているのに、動きを正しく「見極め」たり、右側のポストに手紙を入れられる。一貫して本人は「見えていない」と言うし、おそらく見えていないのだろう。これは脳に「見たもの」が通る回路が二つあるせいである。二つの回路で別々に処理される情報は通常統合されて分けられていることすら気が付かない。わたしが「見える」と自明としている現象もまた、その程度の「わかる」基盤しか持たない。


 あるいは自分の動かない左手を頑なに動くのだと主張する右側頭葉卒中患者。この否認は実に徹底的で、本人が自分の左半身の麻痺を一切知覚していないわけではなかろうが、(耳から冷水を注入すると一時的に否認が解かれ、「わたしの左手は動かない、動くとうそをついていた」と患者は言う。三十分ほどその状態は続くらしいが、再び否認の状態に陥ると、「腕は動くと答えました」と記憶すらも否認してしまう)脳科学者のラマチャンドランによれば、右脳の検閲を受けない左脳が、非合理なまでの合理化を行ってしまうという。だからラマチャンドランは「わたしですらも否認に陥れば、自分が否認を行っていると自覚することなく、否認について講義してしまうかもしれません!」とまで言っている。わたしたちの意識とは、まあその程度のものである。


 人間の意識がだめなら、とすぐ「客観」に走る人がいるかもしれない。いわゆる「客観」を処理するのは結局主観だが、仮に究極的に主観のない客観がいるとして、それが世界を知ろうとする。世界を知るんだから、何かしらその側面について測定をしなくてはいけない。人間もそういう意味では測定器である。光の波長を目で測定し、空中に漂う分子を鼻で嗅ぎ分け、空気の振動を聞き分ける。五感なしには世界はわからない。測定なしには世界の姿は見えない。測定さえすれば、何かの物質のある時の位置と方向と速度がわかれば、世界の動きは物理法則にしたがっているのだから、世界はわかるのではないか。ナポレオンに仕えた博識のラプラス侯爵はそう考えた。こうして生まれた全知の仮定的存在がラプラスの悪魔。


 ラプラスの悪魔はもういないことがわかっている。殺害者はハインゼンベルク。三十一歳の若者にノーベル賞をもたらした不確定性原理だ。単純に言えばハインゼンベルクはわからないと言った。位置を見極めようとすれば速度がわからない。速度を見極めようとすれば位置がわからない。見るという行為には光がどうしても必要である。だが光を当てればその圧力で(光圧という)見ようとする対象はゆがめられる。見ることが見られるものを変えてしまう。だからどうしても厳密な状態を観測するためには見てはならない。だけども、見なくては「観」測などできない。だから結局世界など究極にはわからない。


 あるいは政府が特定の経済行為を国家の経済の指標と定める。その途端にどこの企業も数字のために表面的にその経済行為を繰り返し、指標は不正確になる。対象が目的となれば測定は必ず正確さを犠牲にする。だけれど測られていることがわかればだれでもそれに向かわずにはいられない。ボランティアも大学に入れるかどうかに関わると言われれば、だれでもやりたくなってしまう。もともとボランティア行為から推し量れるいかなる特質もそこにはついてこないのだろうということになる、そういうことを言ったのが経済学者のグットハートだった。


 それから人類の誇るクルト・ゲーデルが結局人生をかけてやった仕事だって、結局は「よくわからない」という結論だった。結論だけ理解するのにゲーデルの天才はいらない。要は自分が矛盾していないことを自分で証明できないのだということだ。悲しいかな、ゲーデルはこともあろうにそれを数学の言語で証明した。科学はどんなに合理的でも結局経験則である。しかし数学はもっと厳密な「真」の証明とそこからの演繹である。だから昔々のピタゴラス教団の人たちが思ったように、「神様でも反対できない」。なのに結論は「だから本当のところはよくわからないし、わかれないってこと」。


 どこもかしこもわからない、わからないということだけはよくわかる。だけれどもここで少し楽観的になれば、ソクラテスはその自覚にこそ学問の始まりはあるのだと考えた。「無知の知」と呼ぶ。わからないってわかっている分だけ、わからないのすらもわからない人間よりはましだというのが彼の持論だ。うーん、これもますますわからない。


 だけど、確かにわからないのにすぐにわかるという人間はあちこちにいる。高校のころ、勉強を教えてくれた先生方だって、「やればできる」だとか、「要は気持ちだ」だとか、よくわからないことを言っていた。人生の勝ち馬はこうだ、と説く本はどこの国のどの書店にもうず高く積まれているけれど、あれもどうしてそうきっぱり言えるのか、よくわからない。こういうやり方じゃないとダメだ、と半ば脅すように説教する人間は、大学に進もうとしても、留学に行こうとしても、仕事を始めようとしても、およそ新しいことを始めようとする人間を啓蒙しようとどこにでもいるが、その人たちが決めつけることもやっぱりどうしてそうなるかよくわからないことなのだ。大抵、「そうもなるしそうならないこともある」ということが、意識にとって都合がいいから「きっとそうなる」と強められて認識されているように思う。まだそれなりにわかることだとしても、「こうだ!」と恥ずかしげもなく押し付けられるとわからなくなる。




 ウィトゲンシュタインはかく語りき。「語りえぬものに対しては口をつぐまなくてはならない。」だから反省しろと言いたいのだけれど、何が「語りえぬ」のかそれもわからない!だけどもわかるのはわかるから「こうだ!」という人には、もうどうしたらいいのかわからなくなる。






Writer:河野一平

Tuesday, May 10, 2016

人のために生きるということ To Live for People



もし「何のために生きているのですか」と問われたら,あなたはどのように答えるだろうか。ある人は「名声のため」と言うかもしれないし,またある人は「裕福になるため」と言うかもしれない。この問いに絶対的な答えなどは存在せず,したがって十人十色の意見があるはずである。さて,私の答えは「人のために生きている」であり,同時にこれが私の人生における「こだわり」そのものでもある。これが何を意味するのか,以下で私なりの考えを読者と共有したい。

まず,私は他人のために生きたいと思っている。これは全員に共通する経験だと思われるが,往々にして人生では他人に助けられることがある。教室の床に落ちた消しゴムを友人が拾ってくれた,一人では手に負えない仕事に同僚が協力してくれた,家族が病気でお金に困っていると知人がお金を貸してくれた,……。その程度がどんなに小さくても,このような体験は誰にもあるはずである。心のどこかで見返りを求めているであろうことを,私は否定しない。しかし,むしろ他人のために生きることによって,私の存在理由を探したいという欲望のほうが大きい。私は将来的に歴史学を専攻することを志望する人間であるが,この場合も同様である。すなわち,歴史を描くことで人類が未来に生きるための道筋をつけ,これからの社会に少しでも貢献したいと思っている。

一方で,私は自分のために生きたいと思っている。他人のために自らを犠牲にして生きるということは,確かに美徳そのものであろう。しかし,恒常的にそのような生き方をすることは,取りも直さず他人にこき使われるだけの存在に成り下がる危険性を孕んでいる。「自由意志をもつ必要がある」と主張するのは大袈裟かもしれないが,いずれにせよ自分の判断に従って行動すべきであると強調しておきたい。

ここまで,私の人生観として「人のために生きる」ことの意味を概観してきたが,おそらく「全てが当たり前のことではないか」と感じた読者がいることだろう。そうであるならば,この文章における私の意図は果たされたことになる。当たり前のことを意識化することは,予想以上に難しい。その当たり前のことをあえて文字に書き起こし,読者とそれを共有することが何よりの狙いであった。逆に「生きる目的を考えたことはなかった」と感じた読者は,これを機会として自分なりに考えてみることを勧めたい。というのも,一つ一つの行動に何らかの意味を見出すことによって,私たちの人生はより深い意味を帯びるように思われるからである。


If you were asked about the purpose to live, what would you answer? Some people might say that they live to win their renown, and others to become rich. There is no absolute answer to that question, and therefore there should be a variety of opinions. My answer is, “I live for people,” which is at the same time what I’m particular about, or kodawari. Let me introduce my opinion in the following.

On the one hand, I’d like to live for others. You should fully realize that you’re often helped by others in your life, whether the extent is small or not. I cannot deny that I’m seeking a favor in return at the back of my mind, but rather I’d like to find out my raison d’être by living for others. I wish to be a historian, and the same holds good here too: I’m desirous to put a process in motion for human beings to live in the future and make a contribution to the prospective society.

On the other hand, I’d like to live for myself. Although living for others at the expense of yourself is a noble attribute itself, there is a real danger that you’ll be freely exploited by others. It might be exaggerating to insist that you must have your free will, but I’d like to emphasize that you should conduct yourself according to your judgment.

Some of the readership might feel that I’ve written only matters of course. If so, nothing gives me such great pleasure as this. It is more difficult than you expect to be aware of matters of course. My object in this writing is to venture to verbalize them and share them with you. If you haven’t considered the purpose to live, on the contrary, I recommend you to work out your own answers, for your lives will assume greater significance by finding out some meaning in each action.

Writer:齋藤 真琳 / Saito Marin















Friday, April 8, 2016

頑張ることに疲れない

私がシリコンバレー付近にきて感じたのはもちろんみんな頭が良さそうで(実際頭が良く)しかも努力を怠らずに常になにかを目指しているということだ。


もちろんそれは素晴らしいことだし私も見習わなければいけないわけで、正直すごく焦った。学校も精一杯で右も左も分からないのにどうしたらいいのだろうかという不安からもうここにずっといるのにどうして私は未だに一歩を踏み出していないんだろうかという不安になるまで私は放置していたのだが、何もやらない割にどうしようどうしようと焦っていた気がする。(そしてまあ今でも焦っている。)


とりあえず自分に甘い私はどうしてこんなに私は焦っているのか考えることにした。答えはとてもシンプルで”雰囲気に飲まれてた”。これだった。


競争率が高くて最先端の技術が学べるシリコンバレーという場所からくるプレッシャー。世界各国のある程度の経済的基盤を持った留学生が集まる、つまりはある程度お勉強、クラブ活動、生徒会(こういうのが私はダメなのだが)インターン等をマルチにこなしてしまう素晴らしい人々、と対照的にダメな自分の構図がダメだったらしい。


頑張らなければ頑張らなければ、と焦っているのに、具体的方法論を考えることはたいしてなく、焦りが焦りを呼んで訳も分からず勝手に落ち込むのだ。あーおバカ。


努力をするなとは言わない。努力することは大事なのは私も知っている。問題なのは”努力をしなければいけないと思って努力することが私にはできない”ということだ。頑張ること、天才になること、成功することを強いられるほど苦痛なことはない。


私は私が好きなことに対して努力をしたい、自分がやりたいことを成し遂げてドヤ顔をしたい。と、いうか日本と同じように塾に行って何も思わずに何も感じずにテンプレート的な成功を目指すようなことをまたアメリカでしたくはない。


、、甘いなあとは思うけれど、でもそれが自分のもやもやの源でそれを解決する方法は自分自身からモチベーションを持ってくることなんだなあと


当たり前なんだけど、そして結果的に行動は多分一緒なんだけど自分を納得させることって大事だなあと思った。


自分を納得させる為には雰囲気に飲まれている自分を論破させなければいけない。自分に対して本当はちょっと無理そうな期待をしていないか?自分が設定していると思っている目標は実はみんながやってるからって思って立てたものじゃないか?そんな疑問をちょこちょこっと投げかけると、きっと無駄なものはボロボロと勝手に崩れていくと思う。崩れたものがあまりに多すぎて吃驚するかも。そんな時はお疲れ自分笑と捨て置いて良い。そのまま頑張ったって構わないけど、疲れるし大変だと思う。

努力の理由を他人任せにしてるとガタが来る。いつでも他人の所為にできるのは快適だがそれと引き換えにどっとストレスが来る。ストレスに負けたアホでもいいけど自分の時間を自分のために、使いたい。



Writer:岡本真希

Sunday, March 6, 2016

教育の目的は何か ―還元主義的解釈―

 学問を語るものなら誰でも、自らの学問をいかに語るのかその方法論の提示に関心を寄せずにはいられない。学ぶことはほぼすなわち教わることであり、また教えていくことであるのだ。であるから、学習の全体を、学習の一歩外に出て眺めてみるという「教育論」の検討は、教育学者たちの議題のみではなかったし、そうであるべきでもなかった。生物学者であろうが、物理学者であろうが、経済学者であろうが、古典文学者であろうが、はたまた法学者であろうが、いかに次の世代を教育していくかというのは深く探求をせざるを得ない問題であるはずだ。なぜなら意識が何らかの合意に至ることを目的としている以上、自分が理解した意味内容を自分の中に完結させないということがどうしても必要になってくるからだ。要は教えなくてはならない。他人に伝えなくてはならない。
 時代の変遷とともに、教育というのは非常に異なる目的を担ってきた。もちろん、多くの人が知るように、教育はかつては特権であり、そうであったがゆえに一つの文化階級を作り上げるのに寄与していた。教育の内容はいわゆる「実用的」なものにとどまらず、例えば音楽や詩の教養や階級に共有される情報の伝達も図られた。わざわざ中世の貴族の教養を浮かべなくても、実は初期の東京大学の入試問題を見てみればすぐわかる。夏目漱石や森鴎外の小説の冒頭を読ませて、主人公とヒロインを答えさせる。これはただの「知識問題」ではなく、ある特定階級ならば当然知っているはずの知識を試しているのだ。それは夏目の小説をいかに味わっているかが焦点になるのではなく、特定階級内の共通了解にいかに精通しているかを試しているのである。だからこれらの入試問題に夏目の小説の味わいに対する理解を測ることを期待するのは的外れというものである。前提から、そうではないときっぱりわかっているのだから。
 時代が下ってくると、社会構造に徹底的な変革が生じ、それとともに教育も大々的に変わらざるを得なくなった。戦後の教育の方向は、階級の否定である。言葉を変えれば、教育の大衆化だ。この大衆化に伴って、教育の目的は必ずしも特定階級の文化の伝達に縛られなくなった。というより、大衆教育は社会階級の傾向を弱めることをこそ目的としてきた。教育には平等の思想が付加された。誰でも学べるように学習内容の一般化が図られた。結果として誕生した現代の「インテリ」たちは、いわば大衆の延長に立つ者たちである。彼らは学んだことを元に独特の共同体を作り上げるほど特殊性を持たない。それはことに、最も根源的な価値観や規範について当てはまるのである。いわば、東大生や京大生といったエリートたちが、「普通の人」になった時代なのである。これは悲しむべきことだろうか。これこそ、戦後の社会が一直線に目指してきたものではなかったのか。その意味で、社会はある一定の成功を見ているとわたしは決断していいと思う。
 しかし同時に、学びそのものの感触や質、何より、目的すらも大きくシフトしてしまったように思う。いまや学校教育を受けることは職業選択の幅を広げるための重要な一段階になってしまった。ここで議論は複雑になる。現代において、我々は何を目的にして次の世代を教育すべきなのか。
 この問題を分析するに当たって、わたしは非常に古典的な手法を採用しようと思う。多くの場合において、非常に役に立つ手法ではあるが、同時に現象の極めて重要な側面を知らず知らずのうちにそぎ落としてしまう危険のある手法でもあることを指摘しておこう。還元主義である。
 還元主義はルネ・デカルトが「複雑な系は十分に理解可能な下位の単純な系に分け、その総和で理解すればよい」と語ったその手法である。生物学が知りたい。そこで群から個体、器官、組織、細胞、細胞小器官、遺伝子とぐんぐん小さい要素を分析していき、それを知り尽くしたのち合わせることによって生物体系の理解ができるとするその姿勢のことを言う。生物学にしろ物理学にしろ、実験器具の精密化とともにミクロへ、ミクロへ、分子生物学、量子力学に進もうとしてきた。これらは十九世紀以降の科学に対する姿勢の延長にあるもので、科学の画期的な進歩を支えたといえる。この手法には「全体観の喪失」という重大な欠陥があるが、我々の脳は起こっている事象をまとめて認識するほど優れていないのもまた哀しい事実である。還元主義の欠点が、この還元主義的分析の論文に現れてしまうことは重々承知であるが、それでも教育という複雑系を理解するためにこの手法を使わざるを得ないということをここに断っておきたい。少なくともわたしがわたしの手法の分析に盲目ではないことを示しておきたいのである。
 分割するにしろ、もともとは「分かれるはずではなかったもの」を分けていくのだから、当然厳密な定義を行うことは出来ない。それぞれの目的が互いに重なり合っている部分もあるし、その中にさらに多様な部分を含んでいることも当然ある。ただ単純に、物事をひとまずより展望よく整理するための道具として、ものさしをいくつか紹介しようと試みているのだ。それらは互いにつながりあって一つであると言えばそうであるともいえるし、ごったにしてまとめて考えようとするとうまくいかないのだから、やはり違う問題だと言えばそうでもある。これらの前提は議論を進める上で極めて重要であるから、ひとまずここで明らかにしておきたかった。


再生産的目的
 まず教育の第一の目的は、親の持っていたものを子に伝えるためである。命に限りのある人間は、一つの世代で構成した何らかの秩序を教育によってのみ保つことが出来る。そうでもなければ、我々は同じことを世代ごとに繰り返さなくてはならなくなる。(厳密には全く同じことを繰り返すわけではないが、意識に変化や前進を期待しないとき、我々はもう自然の選択圧が適当に個体を淘汰してくれ、非常に緩慢な速度でじっくりと遺伝子レベルで改革が行われることを期待しなくてはならなくなる。人の認識レベルではこの「ビルトイン」の改革法はあまりに生易しすぎる。)
 親の持つもので、子どもに伝えられるのはまず非言語的な価値観や道徳観である。物事がこうあるべきであるとする倫理観の論理性を先天的にもつことはできない。論理というのは、世界に対する認識から生まれてくるものだ。世界に対して接触の経験がそもそも少なかった子どもに対して、世界との安定したつながりを持つためには無疑問にまず親の基準を採用しなくてはならない。「うちのお母さんが言っていたもん」と子どもが盛んに口にするのは、それが彼ら、彼女らの「論理世界」の中でベースに存在しているものだからである。(これはフランスの学者ピエール・ブルデューが言うところの「文化資本cultural capital」として教育が扱われるということだ。)
 当然、親の思考や教養が結果として子に反映される。社会全体に階級が存在し、その階級が高度に分化している場合、社会の中には多くの文化が階級ごとに存在することになる。ここで挙げる教育の第一の目的はこの階級の再生産につながってくる。
 この階級の再生産という目的は、教育の長い歴史の中で極めて主流になってきたものであると言っていいだろう。例えば貴族教育を考えてみればわかる。貴族と呼ばれた中世ヨーロッパの上流階級は音楽や語学の素養を身につけなくてはならなかった。これは職業的な実用性を意図したものではないことは明らかである。それらが彼ら、彼女らの階級の中で共有されていたからだ。階級が階級として親和性を高め、同時に排他性を高めるためにはその階級に共有される文化を十分に発達させる必要がある。娯楽の仕方や話題といった興味の範囲に至るまで、決定的に階級差は作り上げられた。それは階級を作った瞬間に不可避的に誕生し、誕生することによって階級差を深めていくのだ。
 一方で労働階級には常に反知性主義のような文化が存在した。本など読む暇があったら、飯を食っていくのに実用的な技能を身につけた方がよほどましである。実際、ドイツなどのヨーロッパ諸国はかなり時代が下るまで庶民は出来がよくても神学校に進むか、それほど勉強ができないようなら(そして階級的な影響で、大抵所得階級と学問に対する能力発揮の大きさは正の相関を示す)工場にでも見習いになって早く手に職をつけようとしたのである。
 階級再生産は今では思想としては批判されておきながら、現実としては決して消えたわけではない。現代においても学生の成績と親の所得は強い相関を示す。それは所得が、言葉を変えれば金が子どもの頭を良くするわけではないのだ。高所得層が子どもの成績改善に貢献するような、例えば辞書やパソコンや本などといった資源によりアクセスしやすいからだろうと思われる。所得ばかりではなく、親の認識、親の教養が子に譲り受けられ、結果親と同じように学問に傾いたり芸術に傾いたりはたまたビジネスに傾いたりするのである。
 しかし戦後日本は一直線に大衆化した。その結果、文化的な意味での階層はすっかり解体されてしまったと言っていいだろう。全国規模で高等教育の推進が行われたとき、我々は知識の目的を「上流階級の育成」から完全にシフトしたのだ。学問は誰にでも平等にアクセスしやすく、誰にでも平等に身につけやすく、役立たなくてはならない。この元で誕生した新たな高等教育社会において、文化的な上層階級を作り上げることは不可能になってしまった。社会におけるインテリはどこを正しても普通の人である。彼らは倫理観において「洗練」されているわけでもなければ、情緒的であろうなどとも思わない。彼らは単純に普通の人々をある特定の指標を元に縦一列に並べたときにその頭の辺りにいた人々に過ぎなくなっている。一口に知性的とは言ってみても、その「知性」の定義はより、いわば平凡にならざるを得ないのだ。つまり知性を備えた人間の生み出した定義のようには感じさせず、誰が、それは教育を受けていない人も含めて誰もが短絡に「頭がいい」と思える価値観が定着した下に生まれた定義である。通常、それは単純な指標の元に数字的に表される。数字になってくれれば、頭がよくなくても頭がよいか悪いか判断できてしまう。本当だろうか。そう考えたら大衆の域を出ることになろう。あらゆる価値観の中で、多くの人々にとって最もわかりやすく、納得しやすいものが定着しやすいのだ。当然、定着したからと言って正しい保証はどこにもない。しかしとりあえず大衆がついてきているのだから、そこにはひとまずの安心感があるのだ。
 大衆社会の中で、人々の価値観は均質化してしまう。東大生に聞こうが、高卒就職組に聞こうが、彼らの持っている道徳性はほぼ同じである。この道徳が文化的、歴史的に見て極めて特殊性をもつとき、我々はそれを社会的な「教育」の成果であると結論付けることが出来よう。社会全体は非常に予測のしづらい複雑な系として絶えず変化し続けるが、その変化の連続性を保っているのが、すなわち前の世代の傾向を地続きに次の世代に移していく働きをしているのが教育のまず第一の非常に重要な目的であろう。


 教育は我々の社会構造、文化構造、そこからなる集合的無意識の影響を強く受けているため、我々が真の意味で「中立的な」教育を行うことは出来ない。しかし、教育の中立性は常に主張されてきたことでもある。それは教育が偏った知識や価値観を子どもたちに植え付けてしまうことを恐れてのことである。心情は理解できなくもないが、しかしそれで「教育は中立」というクリシェを肯定するのはいささか楽観的過ぎる。なぜなら我々は我々が認識をしようとするときに使わねばならぬ脳という器官が中立ではないことをよく知っているからである。「熱」という言葉の温かさの感触を取り去って概念の骨組みだけにしたところで、それを言葉という枠組みに当てはめて認識するところまでは取り去ることは出来ない。そして我々が言葉を認識するとき、その言葉は定義としてインプットされたわけではなく、経験的に意味内容が抽出されたものであるのだ。どこをとっても主観的であり、とても「客観」だとか「中立」だとかいえたものではない。
 つまり教師が生徒に伝える内容の一切は、決して中立たりえないということだ。科学を教えるにしろ、教える順序や言葉の細部が科学の裏の「思想」を届けてしまう。教育をするとは、すなわち世界に名前や形を与えることである。はじめは形なき世界に形を与えるのだから、そんな勝手な話はない。だから切り取った形が、元のものと同じでないことは境界線が存在しているのかしていないのかの差だけにおいても明確であろう。


職業的目的


 大衆化した教育は、それまでの教育とは非常に異なる事情を背負うことになってしまった。それはつまり、一部の特権階級以外の生き方にも適応されなくてはならなくなったのだ。ダーウィンやマルクスに代表されるように、かつてはそれほど働かなくても、好きな研究に現を抜かしていられる資産化階級が存在し、学びの目的は彼らにとっては娯楽と同様に、学びという行いそのものにあるのであった。しかし、大衆はそうも言ってはいられない。働いて金を稼ぎ、食べ物や生活用品を買って家賃を納めなければならない。彼らにも高等教育が行き届くに連れて、高校や大学といったより現実に還元しづらい学問群にも、切々と実利益への還元が求められるようになってしまったのである。
 現代社会において、職業的目的を帯びた教育というのは、もっと具体的にはいかなることを目指しているのであろうか。それは学問を使用の手段としてみるか、選別の手段としてみるかで二分できる。どちらも学問そのものを単純に身につけるだけでは果たされたとはいえない目的である。それゆえに、学問の純粋さというのもやや欠けてくる。職業的目的において、学問は何かに使用されて始めて目的を達成したと言える。


  1. 専門職の知識を伝達するものとしての
 まず、科学の発展とともに、技術が進歩した側面が教育に影響を与えた。つまり、職業が単純に熟練の技巧のみではなく、専門的な科学知識が求められるようになったのだ。西欧において高等教育が担ってきた自由七科、リベラルアーツに対して、現代では非自由七科、ノン・リベラルアーツなるものが台頭し、むしろこちらの方が高等教育で中心的になってきた。前に述べたように、高等教育は基本的には特権階級に属する階級の文化を作り上げるためのものだったので、はじめ大学で取り組まれる学問の多くは学問そのもののために行われるリベラルアーツ系の教科が占めていた。リベラルアーツとは文学や物理、化学、生物学といった科学、心理学や経済学など、すぐさま職業に還元されることのない科目のことである。一方でノン・リベラルアーツはコンピュータ・サイエンスやエンジニアリングといった工業系、経営学など、職業教育としての側面が強い。
 高等教育に新たに授けられた職業的目的のまず第一の項目は、こうして学問を使用の手段として位置づけるこれらのノン・リベラルアーツ教科である。
 このノン・リベラルアーツだが、今ではリベラルアーツの割合を追い抜いて学生の専攻では圧倒的な多数派になっている。それゆえに、大学の目的自身が職業的な専門教育のためのものに偏らざるを得なくなってしまう。


  1. 人材選択の指標としての
 当然、職業機会の増大として教育が見られることも多くある。このあたりが還元主義的分析ではうまくいかないところもあるので、指摘しておくと、職業機会の増大は前に述べた職業的専門教育を受けたから、という要素と深く関わりあっているがゆえに、こうして完全に並列関係にすることは出来ない。しかし、そればかりではない目的をここに汲み取るために、こうして新たな項目として建てた。
 教育を受けたことは、それ自身で一つの保証になる。もはや家柄による選択が許されなくなった大衆社会においては、しかし、みながみな好きなようにするわけにもいかなかったのはもちろんである。人間の高度に役割が分化した社会においては、好きなだけ特定の職業を置くわけにはいかないし、農家やごみ処理といった社会低層に分類されがちな職業に誰も置かないわけにもいかないのだ。農家の子は農家、医者の子は医者という封建的な制度は、その倫理的な問題を別にすれば、社会においての役割分担を実にうまく取り繕ったと言える。このような制度の下では特定の職業に過剰に人が殺到し、コストのかかる闘争を行わなくてもいい。一方でもちろん、当の社会の事情が変わって、職業の過剰や不足の問題に直面しなくてはいけないのは封建制度でも同じことであるが。
 親の職業によるこの職業の分類を行わないとするならば、十七世紀以降発達してきた民主主義や大衆社会の元、「特権階級」によらずに「職業階級」を作るためにはどうすればいいのか。もちろん、教育、訓練、経験による選別を導入したのである。もっとも、職業訓練やある特定の経験すらも吸収してしまったノン・リベラルアーツの台頭以降、これらはまとめて教育という要素であると言ってしまっていい。


 教育が職業目的となったとき、学びは商業行為に近づいてしまう。それは学びという労働と、それによって得られる社会的成功の「等価交換」を生徒たちが目指してしまうということである。教育の再生産的目的は形を変えて現代にも残っていることはすでに指摘したが、例えば日本では共同体の変化の惰性が極めて強く、それを意識的にしろ無意識的にしろ知っている構成員たちはそもそも入る時点で、例えば入社試験、例えば大学受験で多大な「努力」という資本を投資して階級の報酬を得ようとするのである。このとき、彼らは学ぶことをやめる。彼らは彼らの世界を根本から変化させる認識の革新を忘れる。このような職業的目的においては、学びは、そして教育は道具に過ぎない。
 職業的目的に徹した教育においては、ともかく実用性が強調される。「使える学問を」という近年の運動や、「先生、それ何に使えますか」という学生の質問の増加は、なにも現実の世界に学んだことを当てはめてみようとわくわくしている印ではない(その証拠に、質問はするが、実際にコストのかかる実用の実験はしようとしてみない。多くの生徒は学習内容にはどうでも良さそうにしているが、それが実利益を生むことについてはどうでもよくないのだ。というより、それが彼らの唯一の動機であり目的である)。そのような環境で学びが停滞する可能性は大いにある。


自己目的


視野拡大のための
 教育の第三の目的は、教育されること、そのものである。つまり、使おうが使うまいが、学んでしまったら元には戻れない、つまり学びはそういう自己啓発としての、新たな視点を獲得するものとしての目的を持っているということだ。世界に対して、新たな認識を得るために学ぶのである。
 究極的に客観的な「神」の世界などどこまでいっても仮想の世界であり、我々が確かだと確信できるのは我々の認識でしかないというのがデカルトの「コギト・エルゴ・スム」であった。であるから、認識を変えることはすなわちある一人にとっての世界を変えることである。我々は学びの極めて多くの場合においてこの視野拡大を究極目的にしていることを忘れてはならない。
 例えば科学者が科学を行うのは多くの場合において学びの自己目的によるものである。人々が物語を読むのは、物語がどうなるのか知ることそのものに目的があることが多い。そのようにして、「知ること」そのものに究極の価値を置くのである。これは箸の使い方を学ぶこととは異なる。箸の使い方はただ学んでも仕方がない、使わなければならない。しかし世にニーチェなる男がかつて生き、このようなことを言ったのだ、ということを学ぶのは、決してニーチェを使うためではない。何よりもまず、ニーチェを知るために知るのだ。
 この教育の自己目的は、わたしにカントの定言命法を思い起こさせる。せよ、という純粋な動機によってのみ、道徳的な行いをすることが出来るとカントは考えた。彼ならば仮言命法的なもし…ならばの教育を嫌ったろうと思われる。


自立のための
 こうした自己目的の知識を蓄えていくことは、同時に権威からの自立も可能にする。先に述べたように、我々の最初の倫理観、知識は権威の与える知識を無批判に受容することから始まっていく。青年期に達したとき、大人になるために我々はその権威を疑い、離れていく必要がある。権威と根本的な不一致を経験しても、自分が正しいと信じることは脅かされなくなる必要がある。この自立のために、知識は大いに役立つ。それは世界に対して、教育が与えた権威に代わる新たな接触方法である。


教育論議
 教育の良し悪しを我々が批評するときに、多くの場合我々は教育の目的に対する認識に重大な違いをもったまま議論する。であるから、教育批評のようで、実はどの目的の方が大事か、という議論になってしまったり、あるいは「それも大事だけど」と無理に突っ張った議論になってしまったりしやすい。これらの目的を還元主義的に提示することの利益は、まず第一にこれらの論点をより明確に認識できるようにするためである。これらの目的はもちろん、互いにオーバーラップし合い、またときには純粋な意味では同時追求不可能であったりする。学問そのものを本当に極めようとすれば、どうしてもしばらく実用性は置いておかなくてはいけないし、どういう目的をとるにしろ、結局は階級再生産へ向かってしまう事だって多いだろう。しかし少なくとも、例えば「使えない知識ばっかり教えられる」という批判に対して、「何に使うことを前提としているのか、仕事か、日常生活か、はたまたさらに先の学問においてか」という問いを立てることが出来る。
 教育論議は、その先にこそ成立すべきである。つまり、今度はその目的の妥当性を吟味していくのである。階級再生産としての教育はどういう利点、不利点を持つか、他の目的はどうか、それを考えるとき、我々は初めて教育について新たな可能性を探る道を進むことが出来るのだ。

Writer:河野一平

Saturday, February 13, 2016

何かを長く続けるということ

 



私は何かについて長く続けることが多い。アメリカ駐在で出会った学生たち138人の顔と名前を思い出すこと1年、四股踏みエクササイズと体幹トレーニングを1年半、世界のすべての国名を思い出すことを7年、日記(といっても今は週に1回だが)は15年、献血を17年続けている。終了したものを含めると他にもいろいろある。

一見何の役にも立ちそうにないことばかりだが、なぜこれらを続けられるのか。それにはいくつか理由がある。1つ目は自分だけの特別なものを作りたいということ。例えば、毎週末チーズケーキをお店で食べたり自分で作ったりすることを2年半続けたが、人にとってはただチーズケーキを食べるという行為が、自分にとっては「どんな食材を使っているのかを勉強する」ことになり、それが「自分だけの特別なチーズケーキを作る」ことにつながっていった。アメリカ駐在時には創作パスタ料理を37回作ったが、それも同じ理由である。2つ目は健康を保ちたいということ。定期的に何かを思い出すことで脳を衰えないようにし、定期的にエクササイズすることで体を衰えないようにしている。また、納豆と黒酢入りのもずくをほぼ毎日食べて内蔵も元気にしている。私は人から年齢の割に若いと言われることがあるが、それはこのように健康を気にしているからだと思う。3つ目は人への感謝や貢献の気持ちを示すこと。アメリカ駐在時にサポートをした学生たちは、皆やる気に満ち溢れていた。自分は彼らに触発されて様々なことを勉強する意欲が沸くようになった。彼らにはとても感謝しているので、彼らのことをいつまでも忘れないようにしたいと思っている。また、献血は自分の身近にできるボランティアなのでこれからも続けていこうかと思っている。これまで63回献血に行ったが、死ぬまでに100回行くことが目標である。
以前に知人が「何事も10年続ければそれなりのものになる」と言っていたが、実際に何かを続けているとそう思うことがよくある。継続は力なり、これからも色々なことを長く続けていこうかと思う。

今回は記事を書いてくださった池見直俊にいくつか質問をしていきたいと思います。

1、元々長く続けることは得意でしたか?
内容にもよりますが得意な方だったと思います。昔から座右の銘が「継続は力なり」なので。

2、どうやって長く続ける習慣がついたと思いますか?
成長を形に表すことが重要だと思います。例えば、小学生の頃にそろばんを習っていましたが、そろばんは級が上がるごとにできることが増えていき、その成長は計算をするときに実感できるのです。そろばんをやめてから25年近く経ちますが、今でも簡単な計算は頭の中でそろばんを弾いて暗算でします。そういうちょっとしたときに長く続けることは大事だと感じます。

3、池見さんは食べ物の中でもチーズケーキやスパゲッティ、ボランティアの中でも献血を選んでいますよね。様々な選択肢がある中で続けることにした決め手は何ですか?
長く続けている人が少ないこと、あと日常生活に結びついていることです。

4、チーズケーキがどんな食材について研究した結果、次のステップにつながってますよね、他の続けたことにも何か次のステップに繋がったことはありますか?
パスタもそですね他はないかなぁ

5、私も含め、続けることの大事さってわかってはいるのですが中々難しいんですよね。誘惑に打ち勝つのってどうしていますか?
「ちょっとやってみる」という習慣をつけることです。ちょっとやってみるとズルズルとやることになり、結果的に続くことにつながります。「ちょっとだけやってみようよ」と自分自身を騙すんです(笑)

6、続けることによって感謝の気持ちを伝えるというのは思いつきませんでした。このアイデアは元々考えていたことなのでしょうか?もし何かのきっかけで気づいたのであれば、このアイデアを思いつく前と後で何か自分のモチベーションなど変わったことはありましたか?
元々ではありません。学生たちと知り合って彼らから色々なことを教えてもらいました。そのときに彼らにできることは彼らのことを忘れないでおこうと思ったのです。何年かしてから再会したときに名前を忘れていたら悲しいので。やはり、感謝の気持ちがあるとモチベーションが持続すると感じました。


Writer:池見直俊
   岡本真希

Saturday, February 6, 2016

チャンスの前髪


「私のブログに記事を書いて欲しい。」

4年間アルバイトをしていた塾の元生徒から、突然そんな依頼を受けた。
依頼は「自分のこだわりについて書いて欲しい。」というものだった。
面白い内容だと思い、依頼を快諾したはいいものの、何を書こうか考えているうちに少し困ってしまった。
というのも自分にはこれといったこだわりがなかったからだ。


                    **


中学高校時代、私は中高一貫の私立男子校に通っていた。
生徒の組織する実行委員会が、文化祭や体育祭を主催することで有名な学校だった。
文化祭を見に来た際、心から楽しんで目を輝かせている先輩たちを見て、この学校は楽しそうだなと感じて入学を決めた。

それにも関わらず、中学に入ると実行委員会に入ることをせず、毎日学校から自宅までの往復をして毎日を勉強やゲームに費やしていた。

友達の多くは部活や実行委員会に打ち込んでいたが、私は部活にも実行委員会にも打ち込むほどの魅力を感じなかった。
その一方で何かに打ち込んでいる周りの友人たちを見て、心の底から羨ましいと思っていた。

そんなこんなで1年ほどが経ったある日、ある友達に尋ねられた。

「どうして委員会に参加しないの?」
「特に面白いと思えないんだよね。」
「とりあえずやってみなきゃわからないじゃん。俺と同じ委員会に入ろうよ。」
「。。。。」

正直、友達に無理やり言いくるめられて、なくなく実行委員会に入った。
実行委員会での毎日は大変なことも多かったが、それまでに感じたことのない楽しみを感じることが出来た。
「とりあえずやってみる」が功を奏したのである。


                     **


大学に入ってから家庭教師や塾の事務などのアルバイトをしているので、今の中高生に関わることが頻繁にある。
進学先を決めるため、生徒たちに将来何をしたいのか、夢は何なのか聞くことが多いのだが、生徒の中には私のように夢を持てずにいる子が少なからずいる。

このように夢を持てない子が出来てしまう原因には、頑張る人が叩かれるという世の中の雰囲気があると感じる。
いわゆる「意識高い系」という言葉をあちらこちらで聞くことがそれを表している。
このことが、何かにチャレンジしようとしても、他人の目が気になり、行動に移せないという結果を生み出す。
すると、小さな成功体験をすることが出来ず、自信を形成する機会を逃し、最終的に「夢」を持つことが出来なくなっているのだ。

私が周りの人とは違い、何かこだわりを持てなかったのも、結局はこのように自信を持つことが出来なかったからだと思う。
だからこそ、勇気を出して自分のやるべきことや、やりたいことに打ち込み、自信を得た人を見ると、羨ましいなと感じたのだ。

                  **


最近、私がその一部を書いた英語論文が、ある国際雑誌に掲載された。

研究室の教授に、先輩と一緒に書いて欲しいと頼まれたとき、正直本当に書けるのか、ちゃんと形になるのか心配で心配でしょうがなかった。
自分の英語力にも、論文を書くにあたる知識量にも全く自信がなかった。

しかし、先輩に論文執筆のリードをしていただき、教授に様々な部分を直していただいて、どうにかして何とか形になった。
もちろん自分の力だけで掲載に至った訳ではないが、当初の不安は結局大きく外れたのだ。
掲載された論文を目にした時、心から嬉しく思い、そして何とかなるのだと自信を持てた。

その時にふと、「とりあえずやってみる」の言葉を思い出した。
長い間忘れていたが、10年ほど経った今になって、友人から言われたその言葉の重要性を再認識した。


                 **


もちろん何かをすることは、億劫に感じることもあるし、それに付随する責任にも不安を抱くかもしれない。
しかし、そこで踏みとどまってしまっていては成長はなく、ただただ周りから置いていかれるだけだ。
足を踏み出すのが遅くなればなるほど、今更足を踏み出してつまらない失敗をしてすることが怖くなり、周りの目が気になってくる。
負の連鎖である。

それを打開するには、ただ一つ、勇気を持って一歩踏み出すことだけだ。
何かしたいことがあれば、それをやってみればいい。
何もやりたいことがないのであれば、目の前に来たチャンスに手を伸ばし、「とりあえずやってみる」だけでいい。
すると意外と何とかなるものだ。
それをしているうちに、自分のしたい事・すべき事が見つかるはずだ。

チャンスの神様には前髪しかない。
目の前にやってきた小さなチャンスを逃してはならない。
これをこれからも自分のこだわりにして、自分の苦手な事にもチャレンジし続けていきたい。

Writer:神谷泰智